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ソロデビュー40周年・織田哲郎さんのかっこいい歳の重ね方「今が一番マシと思えることが大事」
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ソロデビュー40周年・織田哲郎さんのかっこいい歳の重ね方「今が一番マシと思えることが大事」

今年でソロデビュー40周年となる稀代のヒットメーカーで制作活動やライブ活動のかたわら、YouTubeチャンネル「織田哲郎 T’s Corporation」では定期的に演奏や歌声、軽快なトークを配信するなど精力的に活動されている織田哲郎さん。

還暦を過ぎてもなお渋く、格好良くあり続ける織田さんに、その「かっこいい歳の重ね方」の背景を知るため、音楽活動から私生活まで、「好きなだけ1日中でも喋りますよ(笑)」ということで、たっぷりお聞きしました。

織田哲郎

Profile:織田哲郎さん

シンガーソングライター/作曲家/音楽プロデューサー 
1958年3月11日、東京都生まれ。79年に高校の同級生である北島健二らと共にユニット「WHY」を結成。デビュー当初からCMやアーティストの音楽制作に携わる。「シーズン・イン・ザ・サン」「世界中の誰よりきっと」「負けないで」「世界が終るまでは…」など次々とヒット曲を生み出し、B.B.クイーンズに提供した「おどるポンポコリン」はレコード大賞を受賞。92年『いつまでも変わらぬ愛を』がミリオンセラーを記録。これまでのCDシングルセールスは4,000万枚超で、日本音楽史上歴代作曲家売上ランキング第3位 。

音楽を始めた時期ときっかけ

音楽を始めた時期ときっかけ

小さい頃からいろいろな楽器をいじるのが好きで小中学校はブラスバンド部に入り、プロになると決めたのは中学3年の時でした。イギリスの学校から高知の中高一貫校に転校して、両親と離れて寮で暮らすことになり、当時の日本はちょうどフォークソングブーム、寮のみんなもギターを持っているような時代で、そこでギターに触れてひたすら弾いていました。

そういう瞬間はなかったけれど、ギターはとにかく「それっぽいこと」ができるまでが簡単だし早かったですね。ギターをジャカジャカやっていれば「俺、すでに陽水さんや拓郎さんみたいな感じじゃない?」って勘違いしちゃう。単純だよね(笑)。その頃から「俺はミュージシャンになる」と決めていました。

最初にトライしようと思ったのは『カリフォルニアの青い空』(アルバート・ハモンド)だったかな。『平凡』や『明星』の付録に歌本があって、ギターのコードの押さえ方も書いてあって、3つしかコードがないから「コレはラクそうだ」と思って挑戦したけれど全然ラクじゃなくて。他の曲もその歌本を見ながら自己流でコードの押さえ方を覚えていったから、実は今も普通の人とは押さえ方が違ったりもします。

世界一打率の高い作曲家

世界一打率の高い作曲家

大雑把に数えると、自分のアルバムで200曲、他のアーティストに提供したのは300曲、劇伴(映画やテレビドラマ、アニメなどの伴奏音楽)は200曲くらい。他の方に提供したのが300曲というのは、40年以上活動している作曲家としてはものすごく少ないと思いますね。恐らく、他の作曲家であれば1,000曲は作っているんじゃないかな。

29歳くらいの時、それまでいろいろな人のアルバムを全曲プロデュースしたりしていて、とにかく仕事をガンガン受けていました。そうすると、時間に追われて自分で100%満足していない作品を納品しなきゃいけなくなる時もあり、それが心も身体も消耗するし良くないなと思って。30歳を過ぎてからはシングル曲だけ提供するというスタンスにしました。

あんまりできないですけど……、少し物が言える立場になってからですね(笑)。「ものすごく良い曲を作るので、アルバムではなくシングルとして使ってください。できなければ返してください」というやり方に変えました。だから、有難いことに30歳過ぎてから書いた曲は世の中で知られている曲が本当に多いですね。

多分、世界一打率の高い作曲家だと思います(笑)。

本当はなんの苦労もせずポンとできちゃうものが一番良い曲になるんですが、いつでもそう都合良くはいかないですね。例えば、『おどるポンポコリン』は頭からなんとなく歌い出して、1分くらいで完成した曲でした。そういうものが一番破壊力あるんですよ。苦労して時間をかけてこねこね練り上げたものって自分ではすごく愛着があるけど、そういうのはアピール力が弱いことが多いです。

思い入れっていう言い方をするとどうしても自分のアルバム曲になるけど、あとは自分がプロデューサー、アレンジャーとしてフルで関わったものですかね。特に相川七瀬さんは彼女自体を私が声を掛けてゼロから作ったというのもあり、そういう意味では『夢見る少女じゃいられない』は他のアーティストに提供したものとしてはすごく思い入れがあります。アレンジも練りに練って、歌入れもして歌詞も書いて。デビューでどんな服を着るかも全部考えたし、単純にそれにまつわる思い出が多いということもあるかもしれません。

あとは『シーズン・イン・ザ・サン』。その前からTUBEとはいろいろとお付き合いがあって、私がソロになる前の「WHY」と「9th IMAGE」って2つのバンドのアルバムの曲を彼らが数曲カバーしてくれていました。『シーズン・イン・ザ・サン』はきっちりアレンジからレコーディングまで全部に関わったし、私もTUBEも売れ始めてきた時期で、「売れてきたじゃん!」「キテるぜ、キテるぜ」っていう、状況が良くなっていく時間を共に過ごした同志です。

2000年に起きた事件直後の心境

2000年に起きた事件直後の心境

『One Night』というアルバムがあるんですけど、これは2000年に声変わり(スペイン滞在中に強盗に襲われ、首を絞められ声帯の骨が歪むという事件によるもの)後の、初のアルバムなんですよ。その当時、人生を見つめ直した中で、それまでの自分のアルバムが常に納得がいってなさすぎると思って。

正直に言うと、どんなアーティストでもみんな自分のアルバムを作った後ってやっぱりどこか悔いが残る部分があって、もっと悔いが残らないものを一枚きっちり作りたいと思いました。歌い直しや楽器の録り直しを7年かけてやって、アルバムとして初めて満足いくものができたと思えたから、『One Night』への思い入れは圧倒的に強いです。

それまでの3、4年が、酒に溺れている合間でひたすら仕事だけはするような猛烈にアンハッピーな状態だったから、「このままではどうにもならない」と崖に向かっている実感はありました。だから、「なんかあるとは思っていたけどこうきたか」っていうどこか納得感はありましたね。

あと、音域がすごく狭くなったけど歌えなくなった訳ではなかったから、「神様がいい塩梅に残してくれたんだな」って思えました。逆にこの一件がなかったらもっときちんと身体を壊して死んじゃうとかなってたんじゃないかな。

1年くらいはやめていたけれど、また飲んでましたね(笑)。やっとやめたのは4年前。断酒するって決心したわけではないけれど、心の底から「もういいかな」と感じる部分があって。乾杯のビールを一杯飲んだりはするけど、酔うまで飲むことは一切ないです。そこから体調が悪い時がなくなりました。

30代半ばから始めた自己流の体操

30代半ばから始めた自己流の体操

元々胃腸があまり強くなくて、24歳くらいから肉や揚げ物をほとんど食べなくなったけれど、逆にこの20年くらい肉は少しは食べるようにしています。昔から野菜や魚は比較的好きで、納豆やインド料理も好んで食べるし、それが結果的に良かったなと思います。あと、35歳頃にパリコレのモデルの話などもあって減量のために自己流の体操を始めて、それ以来今もほぼ毎日続けています。

まずは、全身の全ての関節や筋肉を動かす意識でストレッチをやって、その後、ちょっとした有酸素運動をやるようなものです。有酸素運動は、私の場合は両足首・両膝とも痛めていて走れないから、その場で両足でピョンピョン飛ぶ。そうやって足回りの筋肉を付けるようにしています。始めた当初は5〜10分でしたが、今は20分くらいかけてやっていて、時間があれば散歩とかもします。

この体操で本を出すと売れるんじゃないかと思ってます。やらないですけどね(笑)。

しません!(笑)。はっはっはっ。しないけれど、それが一番観る人増えそうだね。だけど、これはみんな自分で考えた方がいい。私の場合はまず、両足首・両膝ともだめだったから、たまたま有酸素運動的に飛ぶところから始めましたが、走れる人は走ってもいいし、人によってその時の体力と体質も違うので、自分がやれる範囲のギリギリのレベルを考えて始めた方がいいと思います。

考え方としては、しんどすぎない程度になるべく「全関節・全筋肉を動かす動きをする」「何らかの有酸素運動を取り入れる」。歳を取るにつれて身体にガタがくるし、その箇所が増えると維持するためにやらなきゃいけないことも増えます(笑)。

自分を実験動物として捉える

自分を実験動物として捉える

基本的に朝5時とか6時には寝て、昼に起きるというサイクルで、今はトータルで6時間くらいは寝るようにしています。昔から続けて寝られないんですよ。

昔はそう思っていて、大体2時間寝たら今日は寝たということにしていたんです。だけど、45歳くらいの時にずっと頭が痛くていろいろな脳の病院に行ったけど何をやっても治らなくて。ある日沖縄に行った時に眠すぎて2、3日寝倒したことがあって、そうしたら痛みが抜けました。「寝不足のせいやったんかい!」ってなりましたね(笑)。単に寝不足は身体に悪いってことで、今は寝るように心掛けています。

60歳頃からはちゃんと風呂で湯船に浸かって、先ほど話した運動やちょっとした筋トレをして、お肌の手入れもします。

熱心な女子ほどではないけど、50歳過ぎてからやるようになりました。やっぱり歳を取るとやることが増える(笑)。俺の基本的な考え方として、自分を実験動物として捉えていて、日々、自分で自分を使って実験しているという状態。特に今はYouTubeに参考になる動画がたくさんあるし、取り敢えずやってみようかなとなることが多いですね。しばらく続けて効果があるとそのまま続けるし、効果がないんじゃないかと思ったらやめるという方法を取っています。

んー、まあ気持ちが高まるというより、肌が汚いなと思うと気持ちが下がる。若さにしがみつこうとは思わないけど、歳を取るのは仕方がないからなるべく見苦しくならないように、やれば防げることはやった方がいいという意識です。それでマシになったと思えることが重要だし、マシになると楽しいですね。

昔から「あの頃が良かった」っていうやつが嫌いで。いつでも「今が一番マシ」と思えることが大事と思っています。私自身、本当に浅はかでしょうもない男だからこれでも少しずつマシな人間になっていると思える。お恥ずかしい話ですが、還暦を過ぎたあたりからそう考えられるようになって、「俺、大人になったな」ってちょっと思っています(笑)。

YouTubeは好きなことだけを喋れて楽しめる

YouTubeは好きなことだけを喋れて楽しめる

最近ハマっていることは、エフェクター集めですね。酒を飲まなくなった時間に何をしているかというとYouTubeを観る時間が増えて。世界中のエフェクター紹介やギターを弾いている動画をよく観ていて、日本では売っていないエフェクターは海外から取り寄せたりもしています。趣味の時間はYouTubeを観るか、ギターを弾いてますね。

そうですね。自分が一切テレビを観ないし、ラジオも聴かない。テレビについては出るのも苦手で音楽にそんなに興味がない人、ましてや「俺に興味がない人が観ていても不快じゃない俺」っていうのを演じなきゃいけないと考えるのが面倒くさくて。

YouTubeは好きなことだけを喋るからこれが面白いと思う人だけ観てねっていうことができるし、スマホですぐに始められますしね。私は根っからオタクだから、オタクって万人向けに話そうと思うと困って静かになる。だから、テレビとかは陽キャラに任せてこっちはYouTubeで喋る(笑)。

コロナ前から実験のつもりでスタッフとやり始めて。1、2年続けてダメだったらやめようと思っていたら思いのほか自分も楽しくて続いています。視聴者にも楽しんでいただけているのが嬉しいのもあって。

「たぶん役に立たない作曲講座」というコーナー名だけど、実は観る人によっては為になる実用的な作曲講座をやってると思っているよ(笑)。作曲をしている人がひとりでも「自分の作った曲の一箇所が作曲講座のおかげでできた」って思ってもらえたら、こちらもやった甲斐があるってもんじゃないですか。ケチってもしょうがないから、少しでも残せるものがあればいいなって思います。

ギターの究極の音をいつでも出せるようにしたい

ギターの究極の音をいつでも出せるようにしたい

自分としてはどうしてもやりたいことがひとつあって。「この音が最高だよね」っていうギターの究極の音をいつでも出せるようにしてエレキギターのプロとして納得できるプレーをしたい。もしかしたら85歳くらいになってようやく「これだ!」「この音だよね!」ってなるかもしれないけど、そうなっていたら最高だよね。

プロの仕事は人を喜ばせること。私は、「小学生の時の自分」「中学生の時の自分」「高校生の時の自分」という、当時の自分を頭の中に残していて、作る曲によって考える頭を変えるようにしています。例えば、世に出すポップスを考える時は、「中学生の頃の自分」が感動するようなものを作るようにしていて。時代が変わっても中学生の感性的なものはそんなに変わらないから。中学生の時は「パーン!」「キラキラ!」って感じが好きだったよねっていうのがあるから、そういうものを提供するようにしています。

その中学生の感性を食べ物に例えると、ハンバーグとかカレーとか味がわかりやすい食べ物。それが美味しい=ギターをガーンって弾いて単純に最高ってなっていたけど、大人になると子どもの頃には分からなかったお吸い物の出汁の味とかが分かるようになってその味を求めるようになる。だから、今は情熱を持ってその幻の出汁=“ギターの究極の音”を探しています(笑)。

(取材・撮影=赤木一之)