更新日
公開日

百歳を生きるすばらしさ「みんなで達成、健康百歳」

百歳を生きるすばらしさ 「みんなで達成、健康百歳」
山田 修 ライター

執筆者

ライター

山田 修

名古屋市に生まれ、海部元首相、神田前愛知県知事を輩出した東海高校弁論部で活動し、言論と政治の重要性を学ぶ。それを生かすため、大学を卒業後、びわ湖放送に入社。びわ湖放送では、のちに島根県仁摩町の町長になり世界一の砂時計を作った泉道夫氏にジャーナリストの矜持と地方自治の責任、中日ドラゴンズの代表になった鈴木恕夫氏にスポーツの魅力、歴史小説家の徳永真一郎氏に歴史の叡智と言葉の選び方の教えを受け、フリーライターとして、各種メディアに寄稿している。

人生百年時代、そんな言葉がポピュラーな社会になってきました。長寿社会になり、百歳まで生きるのが珍しくない時代です。今年百歳になられる方は90,000人を超えるようです。

長生きをするのは一般的には歓迎すべきことですが、「ずっと健康だったら、いいけれど」「自由に行動できないのなら、長生きはしたくないよ」そういった声も聞かれます。

長く生きれば悲しいこと、苦しいこと、大変なことを多く経験します。長生きは必ずしもいいことばかりではありません。しかし、私、山田修は妻の母が満百歳まで生きるのを共に見てきて、百年生きること、長生きをすることはすばらしいと心から思いましたので、そのことをお話ししたいと思います。

健康で気持ち良く暮らす、人生には病気が当たり前

私が妻の母と一緒に暮らすようになったのは、2006年(平成8年)の秋、母が88歳のときでした。母は大阪で妻の長兄家族と同居していましたが、事情があり同居できなくなりました。妻にはもう1人兄がおりましたが、関東に住んでいたこともあり、関西から移動せずにすむことと、娘との同居の方がストレスや気遣いも少ないだろう等の理由で、私たち夫婦と息子2人の我が4人家族と京都で同居することになりました。

私は喜んで同居したわけではなく、やむを得ず同居することになったのです。妻が3人兄妹の末っ子ですので、結婚当初から母との同居という選択肢は全く頭の中にはありませんでした。

妻との結婚も母から反対されていたので、好きな存在ではありませんでした。ですから、なるべく関わらない、当たらず触らずの関係を続けようと正直、思っていたほどでした。

ときには喧嘩もしました

実際に同じ屋根の下で暮らし始めると、いさかいも起きました。妻が食事を用意する際、私たちと義母の献立は量の違いはあるものの、内容はほぼ同じにしていました。好き嫌いの多い義母は、自分が嫌いなものをよく残します。それにもかかわらず、それらを私に食べろといってきます。私はそちらこそ残さずに食べたらといい返し、ときには険悪な空気になりました。

義母の好物のイクラを冷蔵庫で冷凍保存していましたが、賞味期限から相当日数が経っていたので、母に黙って捨てたところ、怒って賞味期限内のウナギを捨てられたことがあります。

ほとんどが小さないさかいですが、何日もお互いに口をきかないときもしばしばありました。どちらからも謝まることもなく、ときにまかせて、いつしか何事もなかったかのようになっていく、その繰り返しで徐々に喧嘩もしなくなりました。

どちらかといえば病気がちでした

義母は病気がちではありましたが、元気なお年寄りでした。私が結婚したとき、義母は60代後半でした。同居を開始するまでにも、胆石の手術をしたり、骨折して体調を崩し入院したり、骨粗しょう症を患い、不整脈などで床に臥せることがありました。

2011年(平成23年)に、家族で長男の赴任先の富山に京都から車で1泊2日の旅行に行き、富山県五箇山と岐阜県白川郷の合掌造りの世界遺産を巡って帰ってきました。帰りに名古屋経由で遠回りをして帰ったことが影響したのか、義母は帰宅後しばらくして体調を崩しました。

病院で検査をしたところ、心臓に異常が見つかり、ペースメーカーを挿入する手術をしました。93歳のときでした。障害者、要介護者になりましたが、その後も元気に行動していました。ひとりで市バスに乗り、デパートに買い物に行くほどの元気なお年寄りでした。

大病をしても生きる喜びを

大病をしても生きる喜びを

90歳を超えてペースメーカーを入れる手術、私はこのことだけでもすごいなと思いました。そして、手術後も以前とほぼ変わらない日常生活を送っていました。

妻は母に楽しく、元気な余生を過ごしてもらおうと積極的に旅に連れ出しました。神戸から横浜のクルーズ船の旅、二男の赴任地、秋田県に新幹線を乗り継いでの電車の旅(ペースメーカーを入れているため、飛行機を避けました)と、母娘の二人旅を満喫していました。

母は満州生まれの満洲育ち、内陸部の吉林市の出身のため、海鮮物は食べず嫌いで苦手です。歳をとってから好きになるものもありましたが、好き嫌いが多い方でした。そして、無理して食べません。お酒も若いころは飲まず、中高年になってからビールを口にして「おいしいね」と驚きながら飲み始めました。といってもグラス1、2杯です。酔うまで飲みません。

暴飲暴食はせず、不摂生をできるだけ避ける、若い頃からそんな傾向はあったようです。母の姉と妹は喫煙者でしたが、母自身はたばこを全然吸いませんでした。お転婆な面も全然なく、勉強のできる“優等生”だったそうです。

三度の食事は食卓で

母は生真面目な性格で、無茶な行動やリスクのある行動はしません。ですから、規則正しい生活ができます。

毎日朝昼夕きちんと三食食べる。体調が悪くない限り、朝7時に起きて歯を磨き、顔を洗う。夜は9時に就寝、夜中に何度かトイレに起きるが、自分で用を足せたので自由にさせる。お菓子等の間食も制限を加えず、なるべく母の意思を尊重して、一日のルーティンを決めていました。体調がさほど悪くなくても、ベッドから起き上がるのを嫌がるときもありましたが、そんな時でも食卓で一緒に食事をするようにしていました。

お年寄りはわがままになりがちですが、そのわがままをどれだけ許容するかが難しいところです。「健康で長寿を続けるには?」の基準に立ち返り、都度判断をしていました。

楽しく明るい人生を

お年寄りはちょっとしたきっかけで体力を落とします。母は健康な状態が続くと、少し無理をしました。そして体調を崩します。

2014年(平成26年)の11月末に京都東山ドライブウエイの山頂に青蓮院門跡の国宝、青不動を安置する将軍塚青龍殿が落慶され、私たち夫婦と母の三人で出掛けました。青蓮院門跡は皇室にゆかりのある寺院で、昭和天皇の皇后、香淳皇后陛下の弟宮が門主をつとめられていたお寺です。新しい建物と庭園、ガラス張りの茶室を巡り、京都市内が一望できる大舞台にのぼるなど、晩秋の一日を満喫し、母も相当行動量は多かったようです。

数日後、それらの疲れがたまったのか、床に臥せ始めたので、医院を受診したところ、腰の圧迫骨折と診断され、併せて腎機能なども弱っていることが分かり、12月から入院しました。入院期間は1回の退院をはさみ、合わせて6ヵ月でした。

100歳を目標に!!

100歳を目標に!!

入院すると、体力や精神力が落ちます。2015年(平成27年)の時点で、母は97歳、あと3年経てば100歳。少なくともそこまでは母に元気に生きてもらいたい、それが私たち夫婦の願いでした。

ベッドにいる時間が長くなります。体調を崩す回数も増えます。明らかに衰えてきました。ひとりで外出はできなくなりました。しかし、三度の食事は私たちとできうる限りともにしました。

元気に100歳を迎えてほしい、残りの人生を楽しく過ごしてほしい、それにはどうすればいいか?を考えました。

私たち夫婦も無理をせずに、「100歳イベント」を楽しもうと思いました。そこでまずは、介護サービスを見直しました。週1回利用していたデイサービスを週3回に増やし、宿泊の介護サービス、ショートステイをひと月に1回受けることにしました。

母は満州でホテルの経営者、街の名士の娘として育ってきました。介護施設選びもケアマネジャー任せにせず、母自身が満足できる環境の施設を探しました。

デイサービスやショートステイを嫌がることもよくありました。一日中、母が家にいれば、妻は短時間の外出しかできません。私たち自身の時間もとらなければ、精神的に参ってしまいます。

母が元気に100歳を迎えるのが一番の目標でしたので、外出好きな母のために、体調の良いときはたくさん外出もしました。車に乗せて桜を見に神社や公園を巡ったり、ゆったりと食事を楽しめる庭園のあるレストランに連れていくなど、母が喜びそうなことをしました。

母は満99歳で亡くなった自身の母親を大変尊敬していました。母の母は戦前、満洲の吉林でホテルを経営し、街のランドマークに発展させました。終戦時、ソ連軍が街を占領したとき、そのホテルには農村から避難してきた人たちもいました。ソ連軍の将校がホテルの全館接収を要求したとき、「あなたの国は人民のお国でしょ。私は日本の人民を守るため、明け渡すことはできません」と言い、ソ連軍将校に要求をあきらめさせた女丈夫でした。

その母の母の23回忌法要を、「4人姉弟で唯一残っている私がしたい」と母は生きる目標のひとつにしていました。23回忌法要は2016年(平成28年)に西本願寺で母の主催で行われました。その席で、妻の兄から「次はおふくろが満百歳を迎えるときに百寿のお祝いをしましょう。皆さん集まってくださいね」と参列者に百寿の会の参加をうながしました。

百寿の会の祝宴

百寿の会の祝宴

母と私たち夫婦の目標がはっきりと決まりました。母の満百歳の会、百寿の会を開催することです。

2018年(平成30年)の桜が咲き始めるころから準備を始めました。会場は街なかではなく、郊外の比叡山の麓、八瀬にあるホテルに決めました。庭園が見える宴会場の部屋で、参加者の皆さんと楽しくゆったりとお話ができる雰囲気が決め手でした。日時は10月の三連休初日の土曜日、お昼の12時半開始としました。

母は百寿の会の日程が決まると、元気になってきました。現金なもので、デイサービスやショートステイもあまり嫌がらずに、素直に行くようになりました。5月2日に満百歳を迎え、秒読み段階に入りました。出欠はがきの準備や出席者の配置、式次第、お土産の選定をしていくと、楽しくなってきます。

8月の末には出欠はがきを締め切り、出席者も確定しました。9月には敬老の日を前に京都市や京都府から職員の方が記念品を携えて、満百歳のお祝いに来られました。

「とても百歳には見えませんね」「そんなことないですよ、しんどいことが多くなりました」「いえいえ、私たちもあなたのような百歳の方とお会いすると、とても元気をもらいます」そんな軽口を叩ける100歳でした。

2018年の秋は台風過多の年でした。百寿の会当日も台風が来るのではないかと、心配していましたが、当日は曇り空ながら穏やかな秋日和でした。

参加者は親族友人知人合わせて40人。形式ばった話はなく、参加者が次々と壇上に立ち、母の思い出話を披露していきます。「私も百歳まで生きたいな」「今度のお祝いは108歳ですね」テーブル席から思い思いの話が聞こえてきます。母を囲んでの記念写真、歌やビデオメッセージも披露される。御馳走を食べ、少しばかりのアルコールを飲み、にぎやかで楽しい宴が続きます。

母も参加者と同じように食事を楽しみ、笑い、話していました。結婚式でもない、会社や団体の祝賀パーティでもない、来賓の祝辞もない、時間を埋めるための余興の必要がない、参加者全員が心から母の百寿を祝い、存分に楽しんだあっという間の宴でした。

母の百寿を達成して

母は百寿の会から約半年後の2019年3月に亡くなりました。5月2日生まれの母の101歳まではあと1ヵ月でしたが、百寿の会に参加して、告別式に参列した方から「お母様が元気で楽しんでおられる姿は素敵でしたよ」と言われました。

私自身も「100歳まで頑張られましたね。ありがとうございました。お義母さんと一緒に暮らし、すばらしい、貴重な体験をしました。そちらの世界でもお元気でお過ごしください」とお別れをしました。

人生100年時代といわれています。誰もが100歳まで生きる可能性がありますが、簡単ではありません。運もあります。天命もあります。思いもよらぬことで生涯を終える場合もあります。努力すれば、気をつけて何かをすれば100歳まで生きられるというものでもありません。

ですが、私自身も100歳まで生きるチャンスがあれば、ぜひ生きたいと願います。母の百歳を通して得た、私なりの百歳、長寿の秘訣を最後にお話したいと思います。

百歳、長寿の秘訣1 楽しく

百歳、長寿の秘訣1 楽しく

まずは、楽しく生きることです。2011年にペースメーカーを入れてから、長寿を意識しはじめました。それまでは同居していても、あまり母に関心を向けたり、干渉したりすることはありませんでした。ペースメーカーを入れても、見た目にはあまり変わりません。ですから、健康状態に留意していけば、百歳まで生きられるのではないかと思ったのです。

先にあげた母の母は満洲でホテルを街のランドマークに発展させた、「吉林の女傑」と呼ばれたような女丈夫でした。戦後日本に引きあげてからも健康で、80歳を過ぎてからも新幹線の東京-大阪間をひとりで行き来するほどでした。

母の母は数え99歳の白寿のお祝いを、200人近い人を集めて開いたときも元気だったので、周りの方たちからは100歳を超えるのは確実だろうと思われていました。しかし、自転車と衝突し、その時のケガが遠因となり体調を崩し、99歳で亡くなりました。100歳まで生きるのは簡単ではないと思わされた出来事でした。

母はそれまで働きづめで経営や資金繰りに追われた人生を送っていました。ですから、ゆっくりと楽しい余生を送ってもらおうと考えました。旅行が好きで、外出も好きなので、できうる限り、妻や私が同行して旅を楽しんでもらい、私たちからも長男の赴任先である富山に一緒に行きましょうといって誘い、立山に泊まったときには、めったに見られないライチョウを見ることができ、とても感動していました。

春になれば桜、秋になれば紅葉と、割と人の多い所に連れ出し楽しんでもらいました。ホテル経営者の娘だっただけに、ホテルや庭園のあるレストランなどに行くのも好きでした。美味しいものも、甘いものもできるだけ、本人の要望を聞くようにしました。こちらから制限をあまりしなくても暴飲暴食をしないので、私たちは楽しんでもらうことを心掛けました。

「修さんは義理の息子ですが、気を遣わなくて、気の良い人だから、遠慮なく遊びに来てくださいね」と、私の都合も聞かず、友人や知人を我が家に招き入れていました。母が楽しく暮らせるようにということを一義に考えました。

百寿、長寿の秘訣2 健康に

長寿にはいうまでもなく、健康が大切です。母は腎臓、心臓、呼吸器等に疾病がありましたが、認知症はなく、寝たきりにもなっていなかったので、一般の方と同じような日常生活が送れました。

就寝、起床時間の規則化、三度の食事は私たちと食を共にする。かかりつけ医などの定期的検診は必ず受診する、薬は妻が管理し、飲み忘れや飲み残しをさせないことを徹底しました。お年寄りの脱水症は恐いと聞いていたので、水分補給は特に意識していました。母の居室、衣服、寝具、台所、洗面所、浴室等家屋の清潔、換気に気を使い、清掃、洗濯、整理整頓、空気の入れ替えはやや過剰気味にしました。

食材も、トランス脂肪酸のあるマーガリンは絶対使わないと決めるなど、気がつく範囲内で健康に悪いものは避けるようにしました。

百寿、長寿の秘訣3 目標を持つ

当たり前だと思われるかもしれませんが、生きがいを持つ、目標を持つことが生きる上でとても大切だと母と暮らして、改めて痛感しました。

百歳まで生き、百寿の会を開き、みんなに長寿を祝ってもらう、この目標は母に大きな力を与えてくれました。100歳を生きる、百寿の会を開く、これらの話をすると母の目は輝き、心うれしくなっているのが常に感じとれました。ただ漠然と生きていたら、健康で楽しい長寿は達成できません。

百寿の会は、母に生きる勇気、生きがい、楽しみ、思い出を与えてくれました。参加者にも「私も百歳まで生きることができるかもしれない」「百歳まで生きて、私も百寿の会を開いて祝ってもらいたい」「健康で元気なお年寄りになりたい」「百歳まで生きる秘訣、ヒントがほしい」といった勇気や希望、目標、生きていることの大切さ、喜びを与えてくれました。参加者の中には98歳の方もいました。私の長男の妻の祖母です。2年後に満百歳を達成しました。百寿の連鎖が起きることも期待しています。

おわりに

健康に気をつけ、食事に気をつけ、生活に気をつけ、百歳まで生きる方法を自分なりに考え、実行していけば、誰にでも100歳を達成できる可能性がある気がします。

秘訣といった大げさなことを書きましたが、楽しく、健康に気をつけ、目標を持つ、の3つは健康に100歳を迎える必須の三箇条ではないでしょうか。難しく考えずに、気軽な気持ちで三箇条は実行できます。もちろん、これをすれば100歳が必ず達成されるわけではありません。

これからの人生、何が起きるかわかりません。私は自覚症状のないガンが発見され、今年1月に全摘手術を受けました。でも、100歳になるのをあきらめていません。最後に、皆様にはこの拙文を読んでいただき、百歳を達成するひとつのヒントになればと願っています。

よく読まれている記事

みんなに記事をシェアする