青森・津軽、と聞いて、皆さんの頭にはどんなイメージが浮かびますか?りんご?岩木山?弘前城の桜?ねぶた祭?津軽三味線……?
“ストーブ列車”を思い浮かべた人は、よほどの津軽マニア(あるいは“鉄道マニア”)かもしれません(厳冬期ならではの津軽の暮らしを体験できるので、こちらも機会があったらぜひ乗車してみてください。おすすめですよ)。
確かに、そのどれもが津軽平野を彩る魅力的なものばかりなのですが、私は何度か津軽を旅するうちに、津軽の手仕事の素晴らしさに魅了されていきました。そして、その手仕事にはある共通項があるのではないか、と思うようになったのです。
その共通項とは、“幾何学文様(きかがくもんよう)”です。津軽は“幾何学文様の国”なのではないか、という仮説を立ててみたのです。
なぜそう思うようになったのか……?
手芸が好きな人なら「津軽こぎん刺し」という名前を聞いたことがあるかもしれません。津軽こぎん刺しは、“刺し子”の一種です。まず、この津軽こぎん刺しが緻密な“幾何学文様”からなるものなのです。
「こぎん刺しだけで“幾何学文様の国”とは、あまりに乱暴な」とのお叱りが聞こえてきます。おっしゃるとおり、これだけで“幾何学文様の国”だなんて乱暴なことはいえません。とはいえ、多少の強引さをもって“幾何学文様の国”説を取ったのには訳があります。何度か津軽を旅しているうちに、思いがけないところで“幾何学文様”と出会ってきたのです。そしてそれは、幻のように、ふっと現れては消えたりもしました。
こういうと、妄想に取りつかれているようですが、ともかく今回、この仮説をもとに、津軽を旅してみることにしました。しばらく私の妄想にお付き合いください。
1.“日本三大刺し子”のひとつ、「津軽こぎん刺し」
刺し子は刺繡の一種で、世界各地でみられる手芸の技法のひとつです。いわゆる刺繡は、装飾を目的として、縫いによって絵画的な造形を象っていくものですが、刺し子の多くは、もとは布を補強するのが目的で、重ね合わせた布をひと針ひと針細かく刺し縫いすることで、生地の強度を上げています。
刺し子文化は世界中にみられるものです。どれも布一面にみっしりと縫い目が続きます。ただただ並み縫いを一方向に繰り返すだけのものも多いのですが、その並み縫いで文様を浮かび上がらせたものもあります。たとえば、インドでは古くなったサリーを重ね合わせて刺し子を施したものを、敷物などに使用しています(「カンタ刺繡」と呼ばれます)。
日本でも刺し子文化は広く分布していました。たとえば柔道着や火消半纏などは、激しく動いても布が破れたりしないように、重ねた布全体に、みっしりと刺し縫いが施されています。
もとは野良着や足袋の補強、あるいは防寒のために細かく縫い刺されてきたものでした。
中でも、山形の「庄内刺し子」や青森の「津軽こぎん刺し」、「南部菱刺し」は“日本三大刺し子”とされています。これらはいずれも、精緻な幾何学文様を縫い目で表し、独特の美を生みだしています。
庄内刺し子は、縦横斜めの縫い目で幾何学文様を刺したものです。米どころ庄内では、もちろん野良着にも刺し子が施されましたが、嫁入りのときに、嫁ぐ娘の幸せを祈って晒木綿に吉祥文様を刺した花ふきんを持たせたのだそうです。「柿の花刺し」や、着物の柄などにもみられる「麻の葉」「七宝つなぎ」といった、直線や曲線を組み合わせた日本古来の文様です。緻密だけれど、愛らしくて素朴な印象の刺し子だな、と思います。
一方、青森県の「津軽こぎん刺し」と「南部菱刺し」は、どちらも細かな方眼紙を埋め尽くすかのような、几帳面な幾何学柄です。そして、どちらも、ベースは“菱形”なのです。
2.「津軽こぎん刺し」のふるさと、弘前へ
東北新幹線で新青森へ。さらに奥羽本線に揺られてしばらくすると、時折りんご畑が見え始め、その向こう、車窓右手に、ゆったりとそびえる岩木山が出迎えてくれました。
「津軽富士と呼ばれてゐる一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふはりと浮かんでゐる。(中略)決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとほるくらゐに嬋娟(せんけん)たる美女ではある」。北津軽・金木(かなぎ)出身の作家、太宰治は、岩木山を小説『津軽』の中でそう評しています。嬋娟とは、容姿のあでやかで美しいさまをいいます。さすがは津軽を代表する作家、太宰治。岩木山を的確にとらえた一文です。
この日、岩木山は真っ青な青空をホリゾントに、頂上から裾野までくっきりと、穏やかに津軽の大地に座っているようでした。その秀麗な姿に胸の高鳴りを覚えながら弘前駅に着くと、駅構内のいたるところに「こぎん刺し」のモチーフがあしらわれていました。
お気づきでしょうか?
壁一面、文様は、菱型の連続です。お城や桜やりんごの模様の中も、よく見ると菱形の集合であることが分かります。この菱形の繰り返しが、独特のリズムを刻んでいて、モダンな印象です。
3.昔のこぎん刺しと現代のこぎん刺しの橋渡しをする「弘前こぎん研究所」
弘前市内には、こぎん刺しをじっくり楽しめる施設がいくつかあるので、さっそく足を運んでみることにしました。
「津軽こぎん刺し」の基本のキを知りたくて、まずは「弘前こぎん研究所」へ向かいます。弘前駅から弘前城方面へ。お城の濠端を左折して追手門の手前から住宅地へ入ってしばらくすると、クールでシンプルモダンな白亜の建物がありました。
実は津軽、弘前には明治から昭和初期に建てられた素晴らしい洋館がたくさん残っています。津軽ではこれを見て回るのも楽しいのですが、ここ「木村産業研究所」もそのひとつ。
モダニズム建築の大家、ル・コルビジェの弟子である前川國男といえば、東京・新宿の「紀伊國屋書店」、上野の「東京文化会館」や「東京都美術館」、京都の「ロームシアター京都(京都会館)」など錚々たる建造物の設計で知られる、日本近代建築の巨匠です。その前川が手掛けた最初の建物が、この「木村産業研究所」。昭和7年に施工されたそうです。2003年6月に国の登録有形文化財に、2021年8月には国の重要文化財に指定されています。
昭和7年といえば、いまから90年も前のこと。日本最古のモダニズム建築なのだそうです。その時代からこんなに洗練された建物が津軽にはあったんですね。前川と弘前の関係は深く、「木村産業研究所」のほかに弘前公園内の「弘前市民会館」や「弘前市立博物館」なども手掛けています。
この建物の中に「弘前こぎん研究所」があります。
木村産業研究所は、もともとはこの地域の産業振興を目的として創設されました。古くは羊毛を紡いで織る「ホームスパン」なども手掛けていたそうです。
この建物が施工されたちょうど同じ時期に、民藝運動の主唱者である柳宗悦が津軽を訪れ、こぎん刺しと出会います。柳はその感動を「名もない津軽の女達よ、よく是程のものを遺してくれた。麻と木綿とは絹の使用を禁じられた土民の布であった。だがその虐げられた禁制の中で是程美しい物を生んでくれた」と著しました(昭和7年「工芸」14号より)。
その頃すでに衰退の一途をたどっていた津軽こぎん刺しでしたが、柳の強いすすめもあり、木村産業研究所によって資料の収集、技術の再興、継承が進められるようになります。昭和37年には「弘前こぎん研究所」が発足、現在に至っているのです。
1階の事務所を覗いてみると、奥の棚にこぎん刺しの商品が見えました。見学に来たことを伝えて中に入り、挨拶もそこそこに、ここでつくられているポーチやバッグなどを拝見。
ほ、欲しい……。テンションが上がります。こぎん研究所には現在、70名ほどの刺し手の方が所属しており、オリジナルの商品を製作、販売しています(Webショップはこちら)。
ふつふつと沸き上がる物欲を抑えつつ、こぎん刺しの歴史をまとめた映像を見せていただきました。
その動画で分かったことをざっくりお伝えすると、
- 江戸時代、津軽藩には厳しい倹約令が敷かれていた
- 津軽は、たびたび飢饉に見舞われていた
- 綿花が育たない地だったため、木綿の着用は禁止。農民は自分の畑で育てた麻から布を織り、その着物(“こぎん”=小布)の着用しか認められなかった
- その麻着物を刺し綴っていた
- 江戸時代中期ごろには、菱形の文様が刺されるようになったことが、古い文献から分かる
- 江戸後期ごろには、木綿の糸が農民にも少しずつ手に入るようになり、その糸で腰のあたりまで菱形の文様が刺し綴られるようになった
- 木綿の糸が使えるようになって、より複雑で美しい菱形が刺せるようになった
- 江戸後期から明治時代にかけてが、こぎん刺しの全盛期だった
現代では麻の着物というと、真夏のものです。シャリっとした風合いがあり、肌に触れるとひんやりして、しかも風通し抜群なのが麻の着物です。津軽の農民は、これを一年中着ることを強いられたというのです。
私はまずこの事実に仰天しました。津軽といえば、地吹雪ツアーなども行われるほど、冬は風が強く、雪の多い土地です。西には世界自然遺産にも登録された白神山地があります。そんな土地で、麻の着物しか着てはいけなかったのです。愛する家族のため、麻の布目を必死になって縫い、埋め潰していく女性たちの切々たる気持ちを思いました。
4.「古作こぎん」とは?
「こぎん研究所」は、資料としての古いこぎんの収集に力を入れていたこともあり、江戸末期から明治、大正、昭和初期につくられたこぎん刺しの着物(=古作こぎん)の資料が豊富です。
美しい!そしてかっこいい!いまの時代に充分に通用する美しさですよね。こんなジャケットがあったら、着てみたい。藍と白のコントラストがきりりと効いていて、おしゃれ心がくすぐられるじゃありませんか。
これは白神山地の入り口にあたる西目屋村など、山地が広がる津軽西部で見られたもので、「西こぎん」と呼ばれるものだそうです。「古作こぎん」の産地は大きく3つのエリアに分かれており、それぞれに特徴があります。
(このことについては、次回、詳しくお伝えしたいと思います)
この古作こぎんの着物を触らせていただきました。藍染めされた麻布は、びっくりするほど薄くて、しなやかでした。いま、こんなに薄い麻布をつくることは難しいのではないでしょうか。しかも自分の畑で栽培した麻しか使えなかったのですから、超(!)貴重品です。まさしく一生ものです。擦り切れたらさらに糸を重ねて刺し、染め直して着続けていたそうです。
私、いま、「糸を重ねて刺し」と申しました。普通、刺し子は「布を重ねて縫い合わせ」ていくものなのですが、古作こぎんで布を重ねて縫い合わせているものは、あまり見かけません(私が知らないだけかもしれませんが、見た記憶がありません)。
ぺらっぺらとはいえ、“貴重な” 麻布。何枚も重ね合わせるほど持ち合わせてはいなかったはずです。破れても擦り切れても、なんとかして縫い綴って補強し、保温を試みたのが、津軽のこぎん刺しだったのでしょう。
ぺらっぺらの麻布、ということは、その布を織りなす麻糸自体がとっても細い、ということです。1㎝平方あたり、経(たて)糸10本、緯(よこ)糸10本で織りなされた麻布だったとのこと。
こぎん刺しの菱形は、経糸を奇数目ずつ、横に拾って(縫って)作られているのだそうです。
先ほどの弘前駅構内のこぎん刺しモチーフも、よ~く見ると……
モールス信号のような、横線の組み合わせからできているのが分かりますか?
これがこぎん刺しの特徴のひとつです。
上の写真のこぎん刺しは、現代の布に現代の木綿糸で刺しています。
昔の糸はこれ以上に細く、布目は細かかったのです。
「これを農作業の合間に刺していたんですね。雨の日とか、冬場とかね」。こぎん刺しの青森県伝統工芸士に認定されている須藤郁子さんが、古作こぎんを愛おしそうになでながらつぶやきました。
「え? それ、めちゃくちゃ暗かったはずですよね?」
「そうなんですよ。昔の人はすごいですよね」
江戸時代から昭和初期のこと。想像してみてください。日中は農作業に明け暮れる毎日です。電気のない家の中、日差しも差し込まない状況で、すきま風に震え、かじかむ指先で針を持ちながら、明かりはせいぜい囲炉裏の灯。そこで目を凝らしながら布目をひと目、三目、五目、と数えながら文様を刺すというのです。
いまのこぎん刺し用の布は比較的ざっくりした布で、それでも布目を数えながら刺すのは大変です。先ほどもいったとおり、当時の麻布は、目が詰んでいて、明るいところで刺すのも困難だと感じました。
5.こぎん刺しの単位となる“モドコ”
菱形の“(最小)単位”を、“モドコ”と呼びます。
これらは、伝統的な“モドコ”で、現在、こぎん研究所で作成されている商品も、この伝統柄を使ったものだとのこと。
一番上の左から2番目が、“豆っこ”。豆のように見えるからだそうです。その左隣が“かちゃらず”。“かちゃ”とは津軽のことばで“裏”のこと。“かちゃらず”は“裏にあらず”という意味だそうです。“かちゃらず”は、“”豆っこ”を刺すと裏面に見える文様。それ自体がちゃんと文様として成立しているので、“裏にあらず(かちゃらず)”という名前がついているのだそうです。
“豆っこ”や“かちゃらず”のほか、“モドコ”は、津軽の農民が普段目にしていたであろうものがモチーフになっています。
日本全土でも見られる文様としては、
そのほか、津軽ならではの文様として、たとえばこれは
ひょうたんに見えますか?(見えますよね?)
これは
これは、
そしてこれは、
これは
そして、津軽ならではの文様が、
馬とともに暮らしてきた土地ならではの文様です。
一つひとつ、なんともいえない愛嬌を感じます。
こうした“モドコ(単位)”を繰り返したり、いくつか組み合わせたりして、より大きな菱形の文様を刺して美しいデザインを作り出していくのが、こぎん刺しなのです。
「こぎん研究所」は、津軽各地から収集したこぎん刺しに施された文様を再現した見本を作成しています。上の写真がその一部です。小さなモドコが集まって、さまざまな菱形のパターンを生み出していることが分かりますね。
当時、農家の女性たちは4~5歳になると針を持たされ、見よう見まねでこぎんを刺し始めたのだそうです。嫁入りには自分で刺したこぎん刺しを持参し、嫁ぎ先の家族の体格に合わせて着物に仕立てたとのこと。
「いまはね、設計図を作って、その設計図に合わせてこぎんを刺していくんです」。帯地織りの第一人者で、研究所所長の奥さんである成田史江さんが教えてくれました。「でも昔は設計図なんかなかったから、頭の中で文様の組み合わせを考えて、デザインして刺していたんですよね」。
一度、こぎん刺しを体験してみると分かるのですが、奇数ずつ布目を拾って文様にしていくこぎん刺しの技法は、非常に数学的です。それを下書きもせずに刺していくだなんて、津軽の農民たちの頭の中は、いったいどうなっていたんでしょうか?
6.津軽女性のDNAに刻まれた「こぎん刺し」愛
こぎん研究所では、そうした古作こぎんをリスペクトし、その技術を再興して、現代の暮らしに合う形に応用し、技術を次世代につないでいます。
たとえばこぎん刺しの帯は、着物愛好家の垂涎の的でもあるのですが、その帯地はこの研究所で織られ、ここに美しいこぎん刺しが施されるとのこと。
この日も、成田さんが帯地を織っていました。
ここにどんな美しい菱形モチーフが刺されていくことになるのでしょう。
こぎんのことを語りだすと止まらない研究所の皆さんたち。その胸元に、私の目はくぎ付けとなってしまいました。
それぞれ異なるモドコが刺された、針刺しになっているのです。ホビーではなく、仕事としていらっしゃるからこその機能美なのですが、なんて素敵なんでしょう!
ここにも津軽女性のこぎん刺しへの愛が表れていました。
それにしても、こぎん刺しの文様がなぜ“菱形”だったのか。いったい誰が始めたのか。このことに言及している資料は見つかっていません。農民の衣食住を厳しく取り締まるために、さまざまな決まりが事細かに書かれていた倹約令にも、こぎん刺しの文様の法則性に関する記述はありません。
藩が決めたわけでもないのに、この“ルール”にいつしか厳密に従い、そのルールの中で自分たちのアイデンティティも表現するというスゴ技には、感服するしかありませんでした。
撮影=牧田健太郎(庄内刺し子の写真を除く)
◆弘前こぎん研究所
青森県弘前市在府町61 ℡0172-32-0595
営業時間/9:00~16:30 休/土・日・祝日
HP ※見学可能
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