さて、青森・津軽で“古作こぎん”に出会い、その美にすっかり魅了された私は、さらに古作こぎんの魅力を探ろうと、次の目的地に向かいました。
1.私設展示館「ゆめみるこぎん館」で“古作こぎん”と戯れる
弘前城を背にして、岩木川を越え、県道3号線をまっすぐ。目の前に岩木山がぐんぐん迫ってきます。ほどなくして右折し、住宅街をしばらく行くと左手に「ゆめみるこぎん館」と書かれた小さな看板がありました。
門を覗くと、前庭の奥に立派な建物があります。
「ごめんください」と玄関をくぐると、朗らかな女性が奥へと誘ってくださいました。
中に入ると……
おお!“古作こぎん”がずらり!
まるで、こぎんの森に紛れ込んだような錯覚にとらわれました。そして、はじめて津軽にたどり着いた柳 宗悦の気持ちを思いました。
「ゆめみるこぎん館」では、館主の石田舞子さんのお祖母様である故・石田昭子さんが一人で津軽中を回って収集した古作こぎんのほか、津軽の民具、昭子さんが刺したこぎんなどの貴重な資料を公開しています。
古作こぎん一枚一枚の特徴や、昭子さんのご苦労、こぎん刺しへの熱い思いを解説していただきました。舞子さんの明るい津軽言葉が耳に心地良く、時間が経つのを忘れてしまいます。
2.一人の女性の情熱で集められた貴重な古作こぎん
昭子さんは昭和3年生まれ。昭和30年ごろ、津軽各地に残されていた古作こぎんを、一軒一軒訪ね歩いて譲り受けて回ったといいます。
「一介の津軽の農村の主婦に過ぎなかった」という昭子さんは、柳 宗悦らによる民藝運動のことなど知る由もなく、ただただ古作こぎんの美しさに惹かれて、歴史の彼方に忘れられようとしていたこぎん刺しを求めて歩いたのだそうです。
昭和半ばの津軽です。交通も整備されていない名も知らぬ村へ、車の運転もできない女性一人が出向いていったというのですから、並大抵の情熱ではありません。
こぎん刺しは「古臭いもの」という風潮が土地の人たちの間に広がっていました。それでも、柳 宗悦らの民藝運動でこぎん刺しの美が再評価されるようになっており、また、先祖が手掛けて愛着もあるこぎん刺しを手放すのは忍びないと思うのが人情というもの。
昭子さんが人づてに探し当て、ようやくたどり着いた訪問先で「なんとか譲ってほしい」と頼んでも、断られることもあったのだとか。それでも諦めきれずにあちこちつぶさに見て回っては、古作こぎんを抱えて帰ってきた姿を、まだ幼かった舞子さんのお母さまも見た覚えがあるということでした。
3.柳 宗悦が感嘆したこぎん刺し
前回の記事でも書きましたが、柳は津軽のこぎん刺しをこう評しています。
「名もない津軽の女達よ、よく是程のものを遺してくれた。(中略)だがその虐げられた禁制の中で是程美しい物を生んでくれた」(「工芸」昭和7年14号より)。
柳が津軽を旅した昭和初期には、すでに古作こぎんはその役割を終えていました。津軽の農民たちは長らく藍色に染めた薄い麻衣しか着ることが許されず、そこに綿の残糸を刺し綴ることでしか寒さを凌げませんでした。
麻や藍を育て、繊維を績んで糸をとり、その糸を機にかけて布を織り、藍を建てて染める。もうそれだけで気が遠くなるほどの時間と手間がかかります。「こぎんを刺し綴るのは、さまざまな制約の中にあって、大変な思いをして織り上げ、染めた布に、自分を表現できる、最後のご褒美のようなものだった、と教えてくれた女性がいました」と舞子さんは語ります。
女性たちはそこに、ささやかながら自分たちを表現する喜びを見出しました。しかし“虐げられてきた”記憶でもあったのです。明治に津軽に入ってきた木綿やウールは、より暖かく鮮やかな衣類をもたらしました。こうしてかつて津軽の農民の身体を包み込んでいた古作こぎんは、いつしか家の片隅に仕舞い込まれ、女性たちがこぎんを刺すことも少なくなっていました。
柳 宗悦が津軽を旅したころは、津軽への列車旅は過酷だったに違いありません。長旅を経てようやくたどり着いた津軽で、藍地に細かく刺し綴られた白い菱模様のこぎん刺しを広げられたとき、柳の目にその文様はどんなに美しく映ったことでしょう。
名もなき人たちが作り上げてきた美しいこぎん刺しに惚れ込んだ柳や石田昭子さんのような人たちがいなければ、こぎん刺しはもう消えていたかもしれません。
4.津軽の土地と“古作こぎん”3つのパターン
ひと口に“古作こぎん”といいますが、“古作こぎん”には地域ごとに大きく3つのパターンに分かれています。「弘前こぎん研究所」に掲示されていたパネル(下写真)をご覧ください。
岩木川の東に位置する弘前や黒石周辺で見られた「東こぎん」。岩木川の西の西目屋村を中心とした「西こぎん」。そして、北津軽の「三縞こぎん」です。太平洋側の南部地方には、こぎん刺しに似た“南部菱刺し”が見られました(南部菱刺しについては、今度、少し触れたいと思います)。
5.弘前周辺に多くみられる「東こぎん」
「東こぎん」は、比較的太めの麻糸で織られた藍地に刺されており、前身頃にも後ろ身頃にも大胆な縦菱が繰り返されているのが特徴です。
弘前から黒石など、平地が広がるこのエリアは、畑作が盛んでした。畑仕事を遠くから見たときに、誰がいるのか分かるようにしていたのかもしれません。
この東こぎんは、近くで見ると、白糸でみっしり埋め尽くされているように見えますが、遠くから見ると柄が浮き立ってくるのだから、不思議なものです。
6.山がちな西目屋村の「西こぎん」
西目屋村は、世界自然遺産に登録された白神山地の入り口にある里山地区です。山仕事に従事する人が多く住んでいました。
当時、山道の往来は、野生の動物や追剥ぎなどに襲われかねない、危険と隣り合わせのことでした。しかしながら、女性であっても炭や薪を背負って売りに行かねばならない土地だったのです。
重たい荷物を背負うので、肩は修復しやすくするためか、簡単な縞模様ですが、背中には「さかさこぶ」と呼ばれる魔除けの文様が施されている、という特徴があります。
また、この地の麻布は非常に細い糸で織られており、そのため、こぎん刺しの文様も大変細かなものでした。
縦菱文様を組み合わせるのは他地域と同様ですが、さまざまなモドコを組み合わせた繊細なデザインが多いのも「西こぎん」の特徴で、「嫁をもらうなら、西の女子をもらえ」と言われていたそうです。
7.幻の「三縞こぎん」と出会う
北津軽は、五所川原や、太宰治の生家がある金木など、藩政時代に新田開発が進められた土地でした。時には腰まで泥田に浸かって農作業をしなければならなかったそうです。そのため、腰から下や両袖には模様を付けず、人目に付く身頃の上部に細かな文様を刺したのではないか、と、こぎん刺しや菱刺しなどの収集家で研究の第一人者である田中忠三郎は記しています。
北津軽はたびたび凶作や氾濫に襲われ、新田開発には困難を伴いました。こぎんを刺す余裕もなかったためか、「三縞こぎん」は現在、数えるほどしか残っていません。前回ご紹介した「弘前こぎん研究所」でも、三縞こぎんを目にすることはなかったのです。
しかし、「ゆめみるこぎん館」にはありました。こんなに状態のいい三縞こぎんが残っているとは、驚きです。
「三縞こぎん」は、前身頃、後ろ身頃に三つの横縞模様が施されているのが特徴です。潔いデザインですよね。
ご覧のように、向こうが透けるほど薄い麻布に、上半身だけこぎんが刺されています。前身頃の右と左のモドコの組み合わせは異なり、“3つの縞”以外は自由度が高かったことが見て取れます。
「どうぞ、ぜひ着てみて」。舞子さんに促され、その三縞こぎんを羽織らせていただきました。
本当に美しい。藍と白のコントラストと、くっきりした3つの縞文様。前身頃と違い、後ろ身頃は左右対称にエッジの効いた縦菱文様が。着ると身体のラインに沿うので、文様がより立体的に浮かび上がります。
そして驚くほど軽くしなやかでした。
8.布の命を全うさせようという思い
衿や袖は傷めば付け替えて、こぎんが刺されている身頃が破れたり擦り切れれば、さらに上から刺し重ねたのだそうです。これは「二重刺し」と呼ばれています。
また、汚れたら上から藍を染めて、長く着続けました。藍色に染まったこぎん刺しは、「アバこぎん」と呼ばれています。「アバ」とは津軽言葉で“おばあさん”のこと。年配の人が着ることが多かったそうです。
藍一色に染まったこぎん刺しはまるで、織物のように見えます。
「こぎん刺しの野良着は、当時の人々にとっては、もう一枚の皮膚。最後まで大切に布の命を全うさせよう、という強い思いがあるのではないでしょうか」という舞子さんの言葉に、私は胸が熱くなりました。
そういえば、「弘前こぎん研究所」の入り口に、こんな服が飾られていました。
かなりモダンでかっこいいコートワンピースだな、と思っていたのですが、今にして思えば、あれは“アバこぎん”だったのです。
これ誰か復元してくれないかしら。やっぱり昔の津軽の女性にならって、自分で作らなきゃダメですかね……。
9.こぎん刺しのミステリー(?)
こぎん刺しについては、なぜ津軽地方だけで発展してきたのか、なぜそのほとんどが縦菱文様なのか、誰が考え出したのかなど、まだ解明されていないことがたくさんあります。
津軽をはじめ、北東北にはアイヌ文化も根付いていました。アイヌ文様といえば、うずまき状の曲線と、とげのある形が特徴的です。津軽とアイヌ文化のつながりの例としては、明治時代に発祥した津軽こけしは、肩や足元にアイヌ模様が施されているものが多くみられます(下の写真は、津軽こけしのふるさと、黒石市の中町こみせ通りにある酒蔵「鳴海醸造店」に飾られている古い津軽こけし。右のこけしの肩と足元にアイヌ文様が施されています)。しかし、こぎん刺しや菱刺しにその影響は見られません。
囲炉裏火の薄暗がりで、図案もなく、下書きもせずに細かな麻布にきっちりとした菱文様を刺していくのは、並大抵のことではなかったはずですが、女性たちはその技を競い合うように緻密な文様を刺し続けてきました。
下の写真のような細かなモドコの組み合わせには、まるで曼陀羅(まんだら)のような、宇宙的な広がりすら覚えます。寒く、貧しく、厳しい労働を強いられる毎日の中、無心で刺し続けることで日々の暮らしの辛さを忘れる、文字通り「忘我」の境地に至ることができたのかもしれません。
こぎん刺しは、布目を奇数目ずつ拾って刺していきます。刺し間違えれば文様が崩れますから、当然、刺し直さねばなりません。
ところで、下のこぎん刺し、どこか不思議なところがありませんか?
これほどまでに緻密に刺し綴ることができる刺し手でも、うっかり刺し間違えて「まぁいいか」と思うのでしょうか。「もしかしたら、言葉にできない思いをこっそりと示した“暗号”だったりして?」。妄想も謎も深まるばかり。でもそんなことを考えながら眺めるのも楽しいものです。
緻密でエッジの効いた硬質な縦菱文様の連なり。なのに、どこかしら揺らぎを放つこぎん刺しの、その不思議な波動が私たちの心に触れたときに、得も言われぬ感情が胸に迫ります。遠い昔の刺し手と、現代に生きる者の魂が呼応する、そんな気がするのです。
10.こぎん刺しへの愛が生んだ「コギンちゃん」
夢見るこぎん
私と手をつないで
くるくる回ってる
たのしませてくれるコギンさん
ありがとう
昭子さんが遺した詩です。
昭子さんは、こぎんへの愛が溢れて、自分でもこぎんを刺すようになり、また、こぎん刺しから発想した「コギンちゃん」というキャラクターまで生みだしました。
これがその、「コギンちゃん」をプリントしたTシャツ。
昭子さんが描いたそうですが、なんともいえない愛らしい女の子ですね。
コギンちゃんTシャツ / あとりえ グレイル ( Atelier-grail )のオーガニックコットンTシャツ通販 ∞ SUZURI(スズリ)
昭子さんが刺したこぎんのベストとエプロンとのコーディネート。抜群のセンスが光ります。
祖母の昭子さんの情熱を受け継ぐ舞子さんもまた、情熱家です。舞子さんが、お祖母様である昭子さんが集めた古作こぎんを展示するようになったのは、2021年。昭子さんが93歳の長寿を全うされた直後でした。
昭子さんのコレクションの展示のほか、こぎん刺し専門誌『そらとぶこぎん』(津軽書房)の編集、執筆メンバーの一人であり、また、近隣の学校などへ出向いて、こぎん刺しへの理解を深めてもらう活動にも携わっています。
一度廃れてしまった“古作こぎん”に命を吹き込み、地元の文化を守り伝えようという熱い思いをはらんで、頭上で時折揺れる古作こぎんたちは今、どんな夢を見ているのでしょうか。
撮影=牧田健太郎(石田昭子さん、岩木山、津軽こけしの写真を除く)
◆ゆめみるこぎん館
青森県弘前市高屋字本宮453-1
不定期営業 要予約(詳しくはインスタグラムをご覧ください)
「ゆめみるこぎん館」https://www.instagram.com/maiko.ishita/