江戸時代から明治時代に津軽の市井の人々が纏っていた「古作こぎん」の美しさを堪能した私は、いまもなお、こぎん刺しが津軽の人たちにとってかけがえのないものであることに気付き始めていました。
土産物店ではさまざまなこぎん刺しグッズが売られていますし、飲食店などにもこぎん刺しのタペストリーなどが至るところで見受けられます。そして、こぎん刺しを室内装飾としてモダンにあしらった宿があると聞いて、部屋を見せていただくことにしました。
1.津軽の奥座敷、大鰐温泉とは
弘前の市街地にある中央弘前駅からレトロな弘南鉄道大鰐線に揺られて約30分、終点の大鰐駅前にはいくつかの食堂が点在し、多くの店には「幻の伝承野菜 大鰐温泉もやし」という看板が。
温泉の地熱を利用して作られているという大鰐温泉もやしを使った「おおわに温泉もやしラーメン」が、もやしラーメンの概念を覆すほどおいしかったのですが、それはまた別の機会にお話しすることにしましょう。
大鰐温泉は、津軽藩の湯治場として利用されていた歴史の古い温泉場です。駅から少し歩いて行くと、平川沿いの500mほどが温泉郷となっています。
しかし、目指すのは温泉郷の中心地から少し離れ、駅から車で5分ほどのりんご畑に囲まれた山腹にありました。
2.「界 津軽」を彩る津軽の手仕事
訪れた星野リゾートの温泉旅館「界 津軽」は、2011年にオープン。森閑とした中にも星野リゾートらしい洗練された佇まいです。
エントランスからメインロビーに向かう通路は、津軽びいどろを通した温かい光に照らされていました。
「ようこそ」と笑顔で迎えてくださった総支配人の石島俊大さん、サービスマネージャーの神(じん)飛鳥さんの姿を見て、さっそくテンションが上がりました。ユニフォームにこぎんの模様が施されていて、そのおしゃれなこと!
このホテルがこぎん刺しをはじめとした津軽の手仕事を取り入れようという試みを始めたのは、2013年。それ以来、客室をはじめ、至るところにこぎん刺しのモチーフや、津軽塗、津軽びいどろ、津軽三味線など、津軽が誇る美を生かした設えや企画を提供してきました。2019年には、客室すべてに津軽こぎん刺しの設えがなされたそうです。
3.こぎん模様の陰影が美しい廊下「木漏れ日kogin」に息をのむ
さっそく、石島さんに館内を案内していただくことにしました。
「木漏れ日kogin」と名付けられた、客室へ向かう廊下に差し掛かったとき、思わず感嘆の声が洩れました。廊下の天井にあしらわれたこぎん模様の透かしから日の光が差し込み、日の傾きにつれて刻々と壁の陰影が変化していきます。天候によっても光の印象は異なるそうです。
客室へ誘うアプローチとしての演出が素晴らしく、それはどこか、教会のステンドグラスから降り注ぐ光の効果にも似た慈しみすら感じました。こぎん刺しを知らない外国からの旅人の評価も高いそうです。こぎん模様は世界に通用する意匠だといえましょう。
4.“koginアーティスト”山端家昌さんとの出会い
その昔、貧しい庶民の野良着に過ぎなかったこぎん刺し。それを温泉旅館がインテリアに採用するという着想は、20~30年前だったら考えられないことだったのではないでしょうか。
「モドコ単体でも、それを組み合わせた模様も、非常にデザイン性が高く、紺と白の配色には上質感もあります。そこでこぎん刺しを客室のインテリアとして構成していけたらいいな、と考えたんです」。
そこには、津軽出身のグラフィックデザイナーであり、こぎん刺しの幾何学文様の魅力を現代に生かし、アートやデザインとして世界に発信し続けている“koginアーティスト”山端家昌さんとの出会いが大きかったといいます。
客室の入り口には、部屋ごとに行燈がついています。この行燈のモドコの文様が柔らかい光を放っていました。
モドコが室内の意匠にもなっており、40ある客室はすべて違ったモドコをテーマとしているそうです。
こぎん刺しは本来、モドコを細かく、繰り返し刺し綴るものでしたが、この宿の室内にあしらわれているのは、伝統的なこぎんのモドコをテーマとして山端さんが現代的に配列や大きさの組み合わせを意匠化したモチーフ。モドコを繰り返しリズミカルに連ねたり、モドコを単体でクローズアップして展開したりしています。その緩急のある幾何学文様の配置に、こぎんのデザイン性の高さとモダンさを改めて思い知りました。
タペストリーやベッドカバーの一部は、まさしく“こぎん刺し”。この部屋のベッドライナーは、藍地に藍糸で刺し綴られていました。「こぎん刺しは布目を数えながら刺すので、藍布と藍糸の掛け合わせは刺しづらくて大変だったとこぎん作家さんから聞きました」と石島さんは笑います。
フォトフレームに入った小さなこぎん刺しもまた、さりげなく飾られていました。「これは契約している6人のこぎん作家さんに刺していただくんですが、実はこの宿がこれだけこぎん刺しをフューチャーしているので、スタッフにも上手に刺せる者がだんだん増えてきまして、中にはスタッフが刺したものもあるんです(笑)」。
こぎん刺しだけでなく、「界 津軽」では、毎晩ロビーで津軽三味線の世界チャンピオンによる演奏があるそうで、津軽三味線に魅せられたスタッフがその伴奏をすることもあるというから驚きます。
ここに来るまでこぎん刺しを知らなかった人も、館内のモダンでグラフィカルなこぎん文様や、こぎん刺しのクッション、ベッドカバーなどの風合いに触れ、その魅力のとりこになってしまう人も多いのだとか。モドコだけでなく、部屋のつくり自体もそれぞれ異なるので、この宿でこぎんの魅力に気付いた宿泊客から「次はまた別の部屋に泊まりたい」という要望も寄せられるそうです。
5.時を忘れて、黙々と刺す時間。こぎん刺し体験が楽しめる
「こぎん刺し体験キットもございまして、皆さん、スマホから離れて、本当に黙々と刺していらっしゃるんです。夏ならカエルの声や自然の鳥のさえずりを聞きながらこぎんを刺す、という非日常の体験を喜んでいただいております」と語るサービスマネージャーの神(じん)さんもまた、こぎん刺しに魅せられたお一人。神さんにロビー奥の“トラベルライブラリー”を案内していただきました。
ここでは、津軽の手仕事を活かしたオリジナルグッズが販売されており、もちろん、ポーチやカードケースなど、こぎん刺しの商品も揃っています。この商品の生地は、「界 津軽」の水庭が美しい黄昏時“薄暮”をイメージしたという、独特の群青色。そこにりんご染めの糸でこぎんを刺した、ここでしか手に入らないものです。
さらに“トラベルライブラリー”では、ちょっとこぎん刺しを体験してみたい人向けに「思い出こぎん」というプチ体験を24時間いつでも、無料で楽しめます。
「思い出こぎん」は、穴の開いた紙のしおりと8色の刺繡糸と針が用意されており、ふだん手芸をしたことがなくても、このしおりの穴に好きな色の糸を刺していくだけで簡単なこぎん刺しが出来上がるのです。
もう少し本格的にこぎん刺しを体験したい人向けには、「こぎん刺し放題」も用意されています。一人1500円払えば、ミニフレーム付きのこぎん刺しキットと針や6色の糸、こぎん布などのセットを部屋に持ち込んで、心ゆくまでこぎん刺しに没頭することができます。
日々の雑事に追われ、手仕事に触れる機会のなかった人が、気軽にこぎん刺しを体験できる機会は、忘れられない旅の記憶となるに違いありません。
6.雪の津軽は“こぎん”で楽しむ
津軽の雪
こな雪
つぶ雪
わた雪
みづ雪
かた雪
ざらめ雪
こほり雪
(東奥年鑑より)
太宰治の小説『津軽』の書き出しです。太宰は(東奥年鑑より)という引用の形でこの一節をしたためていますが、名作『津軽』の巻頭にこの7つの雪を挙げるほど、太宰は津軽を、この“七雪”で象徴したかったのでしょう。
この津軽の雪をテーマとして「界 津軽」では、冬期に「津軽七雪かまくらアペロ」というイベントを開催するそうです。「界 津軽」のロビーの外に広がる“水庭”は、季節によって趣向を変えて旅人の目を喜ばせています。夏にはこの“水庭”に津軽びいどろの風鈴が鳴り、水面に浮かべられた灯りが灯され、冬になるとモドコの行燈に照らされた雪景色の中、かまくらを設えるそうです。太宰が著した“七雪”をイメージしてモドコで象った雪の結晶モチーフを、7色のガラス板に施し、かまくらの外壁を飾ります。かまくらの中では“七雪”になぞらえた7種類の地酒が、その日の雪の種類に合わせて日替わりで楽しめるのだとか。
民藝運動の父、柳 宗悦は『工芸』14号(昭和7年刊)の中で冬の津軽についてこう記しています。
「冬に入れば津軽の吹雪は荒れ狂う。山も樹も家も人も、その前には力がない。手向かうことも無理である。その雪が迫れば、もう外の生活がない。威圧は激しい。風が勢いを添え、寒気を添え、寒さが痛さを加える。それに積もる嵩は深い……(略)」
それほどまでに厳しい津軽の冬を、雪と光とこぎん模様が織りなす幻想のアミューズメントとして昇華させる――。非日常を体験するのに、これ以上の演出はないのではないでしょうか。
撮影=牧田健太郎(ホテル提供のものほか、クレジット注記のあるものを除く)
◆界 津軽
青森県南津軽郡大鰐町大鰐字上牡丹森36-1
☎050-3134-8092(界予約センター)
https://hoshinoresorts.com/ja/hotels/kaitsugaru/