タレント、舞台俳優として活動しながら、近年エッセイストとしても大活躍中の青木さやかさん。昨年上梓した『母』(中央公論社)では、あえて不格好な自分の姿も提示しながら、実母との確執を誠実に、そして繊細に綴りました。
「親子関係で悩んでいらっしゃる女性の方は多いですよね」と語る青木さんは、以前に比べて表情がグッと柔らかくなりました。2019年にお母様が亡くなられましたが、青木さんは自らの母娘関係をどう感じていたのか。また、中学生になるご自身の娘さんとの関係に変化があったのか。じっくりお話を伺いました。
青木さやかさん
1973年、愛知県生まれ。中京地区にてフリーアナウンサーとして活動後、上京。2003年、「どこ見てんのよ!」のネタで、バラエティ番組で一躍ブレイク。テレビ番組のレポーターやドラマ、舞台で活動する一方、小説風エッセイ『母』を2021年に上梓し、話題に。最新刊は『厄介なオンナ』(大和書房)。動物愛護活動にも力を入れており、「犬と猫とわたし達の人生の楽しみ方」を主宰している。
1.友人から言われた「親孝行すれば自分がラクになれる」
――青木さんの亡くなられたお母様はどのような方だったのでしょう?
母は国語の教師でした。子どもの私から見た母はキレイで頭が良くて、とても几帳面。周りの人からとても尊敬されていました。でも、私が何をしても母は褒めてはくれず、できなかったことを指摘される毎日でした。
母が何より気にしていたのは世間体で、人からどう見られるかが重要な関心事でした。さらに、「大学を出ていない人は可哀想」「離婚をする人はダメな人」といった他人への厳しい評価や固定観念も、私に植えつけていたように思います。
――お母様との関係はどのようなものでしたか?
高校時代に両親が離婚したんです。両親ともに教師の家庭でしたが、そこから私と弟は祖父母宅で過ごすことが多かったものの、家の絶対者である母と弟との3人暮らしになりました。私から見ると、離婚の原因は母にあるように感じられました。「離婚をする人はダメな人」と私に言い聞かせていたのに……。「私はなぜこの人に認めてもらいたいと思い続けていたのだろう」と、母への憎しみが吹き出すようになり、以来、私も弟も母と会話をほとんどしなくなりました。
母と私の溝は、歳を重ねるごとに深く大きくなっていきました。それは私が上京後、テレビに出るようになっても、結婚して子どもが生まれても変わりませんでした。母が私の娘を初めて抱いたとき、私は母への憎しみから「私は大事にされてこなかった、そんな私の娘をよく抱けるよね」と口走り、母はそのまま帰ってしまいました。
私の被害者意識や親に満たされなかった思いが強かったこともありますし、今思えば母も生きづらく、それで私に当たっていたのかもしれませんが、それほど修復しがたい母娘関係でした。
――それほど亀裂の入ったお母様との関係を、なぜ修復しようと思ったのですか?
きっかけは、私が関わっている動物愛護活動の友人である武司さんとの交流でした。彼は金髪でサングラス姿のぶっ飛んだ50代後半の男性。12年前に出会ったときから、私に「親を大事にするのは、道理なんだ。どんな親でも親は親。自分が変われば、相手も変わるよ。親孝行すれば自分がラクになれるよ」と彼は言い続けていました。私は自分の親子関係を他人に全く話していなかったにもかかわらずです。
今になると、彼はメンターのような存在で真理を突いていたと理解できますが、何しろ武司さんは見た目が怪しい(笑)。だから、私は長年、心の奥底では疑うような気持ちで見ていたのだと思います。
武司さんの言葉を受け入れようと思ったのは、私がタレント仕事の中である不義理をしたときでした。私は自分の中で「嘘をつかない」など8つの決まりごとを課しているのですが、そのうちの1つを破ってしまった。すると、見透かしたかのように「もう二度と会わない。動物愛護活動にも参加するな」と武司さんから連絡がきたのです。
自分に対して本気で怒って、親子関係の修復を諭し続けてきた彼の言葉を、私はこの10年まともに聞いたことがあっただろうか。しかも、その頃の私は離婚してパニック障害になった後、肺腺がんを患って手術をするなど、八方塞がりでした。何か変われるのなら、まず彼の言うように親子の確執を解くことから取り組んでみよう。そう思ったんです。
2.「お疲れ様でした」――母が最期を迎え、自然と出た言葉
――お母様は2019年、悪性リンパ腫でホスピスに入院されました。東京から地元の愛知へ何度も通ったそうですね。その中で、お母様との関係修復をどのように始められましたか?
それまでまともに会話もしていないので、「さあ、関係修復に取りかかります」と決意表明をしない限り、私自身もできそうになかった。だから、まず最初に母に謝りました。「お母さん、ごめんなさい。今までいい子じゃなくて」と。何か宣言しない限り、私は母と一緒の場所にスッと入っていけなかったのだと思います。
――お母様と会うときに、「これはする」「これはしない」と決めていたことはありますか?
頭の中で母を「はじめましての人」と思うようにしていました。そうしないと、「こう言うと、きっと母はこう返してくるのだろう」と母の言動が想像できてしまってつらい。だから、とにかくシミュレーションをしないんです。あとは、常に自分が上機嫌でいることを心掛けていました。
そう心掛けていても母に言い返してしまって、「やっぱりイヤだ!」と思いながら東京へ帰ったこともありました。母との関係性は、まるで階段を2段上がっては1段下がるような感覚でしたね。でも、「病院に来た初日の状態には絶対に戻らないぞ!」と、自分に言い聞かせながら通っていました。
「今日は娘のテストを持って行って見せてあげよう」とか、「今日は勇気を振り絞って、手をさすってみよう」とか、面会日ごとに自分にミッションを課していましたね。一番難しいのは、上機嫌のまま母と他愛もない話をすること。最終的には、母と途切れず話せるようになりましたが、なかなかハードルが高かったです。
――病院に通ってくる青木さんを見て、お母様も少しずつ変わっていったのでしょうか。
私には直接言ってこないのですが、母は看護師さんにはいろいろ話をしていたようです。「お母様はもう何時間も前から、お姉さんが来ることを楽しみに待っていたんですよ」とか、「お姉さんが出られたテレビの話をしていましたよ」とか、看護師さんづてに聞きました。
「母は私よりも弟の方がずっと好きなんだ」と私は思っていたのですが、どうやらそうじゃないらしい。言葉では伝えてくれませんでしたけど、一緒に過ごした時間の中で、なんとなくそういう思いが伝わってきましたね。
――それでも、お母様は最後まで口に出して思いを伝えてはくださらなかったんですね。
亡くなったときに手紙を遺してくれたので、そこに母なりの思いがたくさん書いてあるかもしれません。でも、私はまだ母の手紙を読めていないんです。いつか気持ちが整ったら、ちゃんと読みたいですね。
死期が近づくと、「今夜が山だ」みたいなことが本当に繰り返し起きました。そのたびに娘と東京から病院に向かうわけです。娘が「おばあちゃん、全然死なないじゃん」と言うくらい何度も(苦笑)。
でも、そういうことを繰り返す中で、これは母が亡くなるときの稽古をしているのかもしれないな、と思ったんです。「今日が最期になったとしても、母との関わりで後悔だけはしないようにしよう」と心に決めて通っていました。だから本当に亡くなった日は、「お疲れ様でした」と母にも自分にも自然に言えましたね。そして、そのとき初めて、母を嫌いじゃなくなっていたんですよね。
3.母との確執を経て、改めて思う人間関係とは
――青木さんとお母様は、まるでプロレスの睨み合いのように対峙する関係性で、お二人ともとてもしんどかったと思います。お母様が亡くなられた今、青木さんは人と人との関係性はどうあるべきだと思いますか?
来る者拒まず、去る者追わず。そして、自分から人間関係を降りないことです。
以前の私は、「あの人、ヘンだよね。ちょっと距離を置こう」というタイプだったんです。でも、もし自分の知らないところでそう言われていたら悲しいですよね。だから、自分がされてイヤなことはしない。「この人とは合わない」と思う人がいても、何かその人にヒントがあるのかもしれない。これからは、自分から人間関係を切ることはないと思っています。
――中学生になる娘さんとの関係性はいかがですか?
一応、娘とは家族というチームの一員になっていると思います。
結婚してできた2人の義理のお兄さんの家族を見たときに、「家族ってこんなに親しい存在なんだ」「こんな風にチームになっているんだ」って初めて感じました。これが家族であるならば、私は今まで一度もチームを組んだことがなかったんだ、と。
娘は多感な時期なので、親子でうまくいかない日もありますが、切っても切れない関係性になっているかと思います。
日々成長していく娘からは、毎日見たこともない課題を突きつけられているようで大変です。「ちょっと前まで知らなかったことなのに、今日はこんな大人びたことを言うんだ……」って。私もどんどんアップデートしていかないと、娘に追いつかない。もう毎日、困っています(笑)。
4.母嫌いを克服したら、自分を大切にできるようになった
――お母様が亡くなられた後、娘さんとの親子関係を紡ぐにあたって、何か変化はありましたか?
母を嫌いだったときは、自分の中に母を感じることがすごくイヤだったんです。特に娘と一緒にいると、自分の中に母を感じてしまう場面は少なからずあるので。
以前は口調やちょっとした仕草が母に似てきたなって思うと、その要素を自分の中から懸命に排除しようとしていた。でも母を嫌いじゃなくなった今、自分の中に母を見つけると、「ああ、懐かしいな」って思えるようになったんですね。自分のことを嫌いにならずに済む分、前より生きやすくなってきました。
あと、私は母親から愛された実感が持てなかったので、自分のことが嫌いで、自分自身を大事にできなかったんです。それは、娘にも影響したんですよね。
私は自分が嫌いだから、自分の一番大事な娘も無条件に好きになるのが難しかった。そうやって娘に無償の愛を持てずに困っていたのですが、母とのわだかまりが解けてから、今は娘を「ただ好きだ!」「とにかく大事」と思う気持ちが芽生えるようになりました。だから今、私は娘といるのがすごく楽しいです。
さっき母から愛された実感が持てなかったと言いましたが、実は母が亡くなってから愛情を感じることがあったんです。母はまとまったお金を遺してくれた。私、浪人もしているし、大学も行かせてもらったし、東京に出てからは母にお金の無心までしていたのに。それなのに、遺してくれた。でも不器用な人だから、何も言わなかったんです。いやあ、親って、すごい存在ですよね。
(取材・執筆協力=横山由希路 撮影=塩谷哲平 編集=ノオト)