ポール・セザンヌのどこかおかしな絵と大器晩成な人生【西洋美術史解説③】

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ポール・セザンヌのどこかおかしな絵と大器晩成な人生【西洋美術史解説③】

前回(西洋美術史解説②)にてフランスの美術運動「印象派」についてお話ししましたが、その次には「ポスト印象派」といわれる世代が現れます。若い頃に「印象派」に影響を受け、そして19世紀の終わりから20世紀の初めに活躍した画家たちです。有名な画家は、ポール・セザンヌ、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホです。3人とも後の世代に大きな影響を与え、作品は高額で売買されていますが、実は壮絶な人生を送った3人です。

今回はその中からポール・セザンヌの作品と人生を紹介します。セザンヌは「近代絵画の父」といわれ、後世に与えた影響の大きな画家ですが、生前はなかなか評価を受けず、20代から画家を志していますが、評価を受けたのは50代になってからでした。セザンヌ絵画の観賞のポイントは「この絵よく見るとおかしくないか?」です。このコラムではセザンヌの絵を見るポイントを詳しくお話していきますので、お楽しみ下さい。

1.セザンヌの絵はどこか変?

ポール・セザンヌは1839年にフランスで生まれ、19世紀末から20世紀初頭に活躍した画家です。

ポール・セザンヌ(1839~1906)
ポール・セザンヌ(1839~1906)
出展:パブリック・ドメイン

セザンヌは人物画や風景画、そして卓上に置いたものを描く静物画(せいぶつが)を描いていきました。

ポール・セザンヌ《リンゴの籠のある静物》
ポール・セザンヌ《リンゴの籠のある静物》(1895年)出典

絵は一見すると、色鮮やかで和みがあるのですが、実はよく見ると「ん?何かおかしくないか?」と思う所があります。

2.セザンヌの絵のおかしなところ

2-1.あらゆる視点で描かれている

先ほどの絵をもう一度見てみましょう。

ポール・セザンヌ《リンゴの籠のある静物》
ポール・セザンヌ《リンゴの籠のある静物》(1895年) 出典

左奥にある籠を見ると籠の中のリンゴが見えます。机を斜め上から見た視点で描かれています。しかし、隣にあるボトルはどうでしょうか?机と水平な位置、正面からの視点で描かれています。

手前にある籠からこぼれたリンゴを見てみると、上から見て描いたものと、正面から見て描いたものが混じっていることが分かります。

つまり、セザンヌの絵はひとつの絵のなかにさまざまな視点が入り混じった構図なのです。例えば《リンゴの籠のある静物》より少し前に描かれたこちらの絵も同じです。

ポール・セザンヌ《Still life with apples and fruit bowl》(1882年)
ポール・セザンヌ《Still life with apples and fruit bowl》(1882年) 出展:Wikiart

セザンヌの前の世代の画家たちである「印象派」の画家たちは、客観的にどう見えるかではなく、「自分にはどう見えたのか」に注目し、日常をややぼんやり描いた作品を残しました(前回記事参照)。一方、ポール・セザンヌはさらに追究を深め、1つの絵の中で自身の見た視点を複数混ぜるということを行ったのです。

2-2.どのような対象も球や円錐の形で描いている

セザンヌは風景画に幾何学を導入しました。分かりやすいのはこの《大水浴図》です。

ポール・セザンヌ《大水浴図》(1906年)
ポール・セザンヌ《大水浴図》(1906年) 
出展:パブリックドメイン

この絵、実は三角形だらけで描かれています。

まず一番分かりやすいのが木です。このように左右対象に木が伸びることはないですよね。そして人の形を見ても、身体や腕や胴体に三角形が意識されています(手前の人の腕、長すぎますよね)。中心には川がありますが、これも両岸が完全に平行となっています。

ポール・セザンヌは「自然を円筒形と球形と円錐形によって扱いなさい」という名言を残しているのですが、まさにその言葉通り、風景画も直線や円、筒だらけとなっています。

2-3.余白がある

ポール・セザンヌは「印象派」に影響を受けた自由な色彩で、特に明るい色味の作品が多いのが特徴です。一方で、絵に余白を残し、キャンバス自体の白色をそのまま使った作品を残した点は、西洋美術史では新しいスタイルでした。

ポール・セザンヌ 《温室のセザンヌ夫人》(1891年)
ポール・セザンヌ 《温室のセザンヌ夫人》(1891年)
出展:パブリック・ドメイン

ドレスの下の方を見ると明らかに色が塗られていない部分があるのが分かりますよね。塗りかけのようにも見える絵の余白が、逆に影やしみなどを上手く表しているようで引き寄せられます。

3.「近代絵画の父」といわれているけれど…

セザンヌは20世紀の代表的な画家、アンリ・マティスやパブロ・ピカソに大きく影響を与え、「近代絵画の父」といわれています。しかし、生きていたときにはなかなか評価されていませんでした。20代始めから絵を描いていましたが、当時の画家の登竜門だった展覧会サロン・ド・パリに17年間落選しています。17年を経て、サロンの審査に通ったものは、父親を描いたこの一点のみでした。

ポール・セザンヌ《『レヴェヌマン』紙を読む画家の父ルイ=オーギュスト・セザンヌの肖像》
ポール・セザンヌ《『レヴェヌマン』紙を読む画家の父ルイ=オーギュスト・セザンヌの肖像》(1866年)
出展:Wikiart

この作品も実はサロン審査員にいた友人のおかげです。その後も絵は売れず、家族や親友の支援、父親の死後の資産を頼りに絵を描いていました。

しかし、50代に入った頃、少しづつ画商やコレクターが絵を買い始め、何より同じ芸術家たちがポール・セザンヌの絵を評価し始めました。56歳のときには初の個展を行い、その後50代、60代で傑作を次々と生み出していきます。まさに大器晩成の人生といえます。

4.リンゴの絵と友達

ポール・セザンヌは静物画として、リンゴの絵を60点近く描きました。

ポール・セザンヌ《Four Apples》(1881年)
ポール・セザンヌ《Four Apples》(1881年)
出展:Wikiart

リンゴの絵を描いた理由に、中学時代にセザンヌは後の小説家エミール・ゾラにリンゴをプレゼントをしてもらったエピソードがあります。2人は1歳違いで、地元エクスの同じ中学校に通っていました。いじめに遭っていたゾラに、1歳年上のセザンヌが話しかけたことがきっかけとなり2人の交友は始まりました。

エミール・ゾラ(1840~1902)
エミール・ゾラ(1840~1902)
出展:パブリックドメイン

セザンヌもゾラに話しかけたことで、いじめの対象となってしまいましたが、その後ゾラは友情としてリンゴをプレゼントしました。以来2人は仲良しとなり、30年以上の付き合いとなります。19歳のとき、ゾラが生活の関係でパリへ移りましたが、それをきっかけに2人は文通を始め、芸術や恋愛のことを語り合っています。その後、ゾラはセザンヌより早く30代の頃に小説家として成功したこともあり、30代後半から40代の頃まではセザンヌに経済的な支援を行いました。感謝や友情の気持ちからか、セザンヌは2人の友情の証だったリンゴを描き続けたのかもしれませんね。

5.故郷への思い

20歳のころ、法科大学に進学しつつ、素描も行っていたセザンヌは画家になるか迷っていました。そんなセザンヌに、友人のゾラがパリに来て絵の勉強をするように何度もすすめました。

そして、セザンヌは大学を中退し、パリに来て画塾に通い始めました。本格的に画家のキャリアを始めた訳です。しかし、都会パリの雰囲気に合わなかったことや、パリで作品がなかなか評価されなかったこともあり、故郷のエクスとパリを何度も行き来しつつ、作品を制作しました。そのためか、故郷エクスのサント=ヴィクトクール山の作品を生涯で40点近くも描いています。

ポール・セザンヌ《サント・ヴィクトワール山》 (1887年)
ポール・セザンヌ《サント・ヴィクトワール山》 (1887年)
出展:wikiart

この山の絵もセザンヌらしい描き方が現れており、手前の木と奥の山や田畑を比べると遠近の違和感があり、三角形や四角形、色の塗られていない箇所も少し見えます。セザンヌが最後に残した作品もサント=ヴィクトクール山の作品でした。

《ローヴから望むサント=ヴィクトワール山》(1906年)
《ローヴから望むサント=ヴィクトワール山》(1906年)
出展:パブリック・ドメイン

6.晩年にはなぜか骸骨の絵

リンゴや故郷のヴィクトワール山、他には水浴図を多く手掛けたセザンヌでしたが、1900年代、60代には骸骨の絵を描いた作品も残しています。

《積み重ねた骸骨》(1901年)
《積み重ねた骸骨》(1901年)
出展:パブリック・ドメイン

リンゴと同じ静物画ですが、リンゴではなく骸骨を描いていったことには自身の死への意識や、友人など知人の死が関係していたのかもしれません。50代、60代と名作を残し続けたセザンヌは67歳のとき、戸外制作中にひどい雨に遭い、その1週間後に亡くなっています。

セザンヌがこれまでにない作風スタイルを作れたことは、絵が認められないことによる反抗心も、ゾラのようにいつまでも応援してくれた人の存在もあってこそでしょう。セザンヌの作品を知れば知るほど斬新さや自然観、人生観を味わうことができます。

現在の私たちにも大きく学ばしてくれるものばかりですし、また死ぬまで創作を続けたその人生は創作に年齢は関係ないこと、人生経験が芸術をより豊かにしてくれることを教えてくれています。