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心の安らぎを求めた画家アンリ・マティス 72歳からの切り絵【西洋美術史⑦】

心の安らぎを求めた画家アンリ・マティス 72歳からの切り絵【西洋美術史⑦】
石田 高大 現代美術家

執筆者
石田 高大 現代美術家

作家・ライター。パフォーマンス・ハプニング作品を中心に現代美術の制作をしている。制作の中でリサーチした知識を発信していきたいと思い、2021年よりライターとして活動を開始。現在、美術や美術史を中心に執筆。著書に『自分らしい生き方が見つかる現代アートの始め方』がある。

自由な色彩表現を行ったポスト印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホに大きく影響を受けた20世紀の画家がアンリ・マティスです(フィンセント・ファン・ゴッホについては『ゴッホの絵は色彩と感情を味わおう【西洋美術史⑤】』をご覧下さい)。

ピカソのライバルでもあったアンリ・マティスですが、「色彩の魔術師」といわれ、色に拘った画家として知られています。20世紀を代表する画家で、若い頃に「野獣」といわれる強い色彩の使い方で注目されましたが、本人が絵の中で求めていたのは「心の安らぎ」でした。そして晩年には「切り絵」の作品にたどり着きます。

今回は、アンリ・マティスの人生や作品について見ていきましょう。

1.アンリ・マティスと心の安らぎ

アンリ・マティスは1869年にフランスで生まれた画家です。フランス北部のノール県、穀物商の父とアマチュア画家の母との間に生まれました。

アンリ・マティス
アンリ・マティス(1869-1954) 出展:Wikimedia

アンリ・マティスが画家を志したのは21歳の時でした。もともとは18歳から弁護士事務所に就職するためにパリに出て法律を学んでいました。しかし、21歳のときに虫垂炎を患います。その療養中に母の薦めで始めたのが絵画でした。この経験がきっかけとなり、アンリ・マティスは画家を志します。

その後、アンリ・マティスは85歳で亡くなるまで制作を続けます。作品の中では植物が描かれることが多く、「心の安らぎ」を求めていきました。不安や気の滅入る作品ではなく、仕事の中で神経を使う人の安定剤になる作品、「体の疲れを癒す心地良い肘掛け椅子」のような芸術を作りたいと述べてもいます(アンリ・マティス『画家のノート』)。

アンリ・マティス《La gerbe》(1953年)
アンリ・マティス《La gerbe》(1953年) 出展:Wikiart

2.野獣と呼ばれた絵

そんな安らぎある作品を求めていたアンリ・マティスでしたが、「野獣派」として注目を浴びます。

アンリ・マティス《緑のすじのあるマティス夫人の肖像》(1905年)
アンリ・マティス《緑のすじのあるマティス夫人の肖像》(1905年)  出展:Wikiart

1904年から1908年、アンリ・マティスは他のアーティストたちと原色のまま使った強い色彩の作品を発表していきます。上の作品《緑のすじのあるマティス夫人の肖像》も、顔の中心に縦に緑の線が入っており、顔の色や背景、衣服は赤と緑の強い色彩です。この強烈な色使いは「野獣」(フォーブ)と呼ばれ、非難を受けました。非難を受けてはいましたが、フランスや他のヨーロッパ諸国、ロシア、アメリカなどでも注目を集めていきました。この原色使いを行う美術の動きは「フォービズム」と呼ばれています。

アンリ・マティス《Open Window, Collioure》(1905年)
アンリ・マティス《Open Window, Collioure》(1905年) 出展:Wikiart

他にはアンドレ・ドランという画家が有名な「フォービズム」の画家でした。赤や青、緑、黄といった原色を強く用いて風景が描かれています。

アンドレ・ドラン《Charing Cross Bridge, London》(1906年)
アンドレ・ドラン《Charing Cross Bridge, London》(1906年)出展:Wikiart

「フォービズム」にはフィンセント・ファン・ゴッホの影響があります。アンリ・マティスは1890年代にフィンセント・ファン・ゴッホの作品に出会いました。当時フィンセント・ファン・ゴッホは世間にまだ知られていなかったのですが、フィンセント・ファン・ゴッホの自由な色彩表現はアンリ・マティスに大きな影響を与えました。フィンセント・ファン・ゴッホは黄と青の原色が特徴ですが、アンリ・マティスは赤や緑なども使っています。

フィンセント・ファン・ゴッホ《種蒔く人》(1888年)
フィンセント・ファン・ゴッホ《種蒔く人》(1888年) 出展:WikiArt

3.柔らかい作品への変化と国を超えた交流

しかし「フォービズム」の動きは1904〜1908年の短い期間でした。「フォービズム」の作品は批判が大きく、画家として生計をたてていくには難しいものでした。アンリ・マティスはその後も色彩の探求も続けていますが、柔らかい作品へと変化していきます。

アンリ・マティス《ダンスⅡ》(1910年)
アンリ・マティス《ダンスⅡ》(1910年) 出展:Wikiart

「フォービズム」以降のアンリ・マティスはアフリカのアルジェリアやモロッコを訪れ、アフリカのアートに影響を受けた他、スペインを訪れイスラム美術を学ぶなど古典的な作品に影響を受けていきました。

19世紀は1970年代のフランスの印象派作品が、ドイツでは1883年の展覧会、ロシアでは1896年になって紹介されたように美術が他国に紹介されるまでには時間がかかっていました。しかし、20世紀にはフォービズムの作品が1908年にアメリカやロシアにて展示されるなど、国を超えた美術の動きが大きくなっています。

そのため、アンリ・マティスはフランスの画家ですが、早い段階からアメリカやドイツ、ロシアなどに作品を積極的に購入するファンを獲得しています。他にも国を超えて芸術家たちと共同で制作をしています。ヨーロッパだけでなく、アメリカ人やアメリカ移民との共同制作も行いました。

アンリ・マティス《Woman at the piano》(1925年)
アンリ・マティス《Woman at the piano》(1925年) 出展:Wikiart

4.72歳から始めた切り絵作品

第二次世界大戦中、フランスはドイツに占領され、ナチスによる芸術活動への統制も行われています。中には、他国へと亡命する画家たちもいました。アンリ・マティスは第二次世界大戦中もフランスに残っていましたが、1941年に十二指腸癌となります。手術に成功しますが、後遺症もあり、ベッドと椅子での生活になりました。既に72歳となっていたアンリ・マティスでしたが、ここから新たな作風をもたらします。

アンリ・マティス《Icarus》(1943-1944年)
アンリ・マティス《Icarus》(1943-1944年) 出展:Wikiart

アンリ・マティスは療養中、アシスタントの助けを借りて「切り絵」(カット・アウト)の作品を始めました。既に色の塗られた紙をハサミで切ってコラージュした作品です。また、介護を行っていたモニーク・ブルジョワという女性と交際関係が始まりました。モニーク・ブルジョワが1946年に修道女になったことで、アンリ・マティスに修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザインの仕事が訪れます。内装からステンドグラスデザインまでアンリ・マティスが手掛けており、アンリ・マティス作品の集大成といわれています。

礼拝堂のステンドグラスのデザイン
礼拝堂のステンドグラスのデザイン 出展:Wikiart

アンリ・マティスは1943年には切り絵の作品集『Jazz』を出版した他、1952年にはフランスに「マティス美術館」を設立しています。1954年、85歳にて生涯を終えました。

5.切り絵と心の安らぎ

絵の中で「心の安らぎ」を求めたアンリ・マティスですが、晩年の切り絵で「心の安らぎ」を達成したといえるでしょう。初期の「フォービズム」作品も晩年の切り絵作品も色としては原色の作品です。しかし、受ける印象は大きく違うのではないでしょうか。

アンリ・マティス《 Blue Nude》(1952年)
アンリ・マティス《 Blue Nude》(1952年) 出展:Wikiart

切り絵は誰にでもできる作品に思えますが、アンリ・マティスの長い創作の中で生まれた落ち着いた色合い、デザインの安心感があります。病気の療養の中で絵を始め、そして晩年にまた療養の中で「心の安らぎ」を発見したことは偶然ではないかもしれません。

同じ絵といっても、鉛筆画、色鉛筆画、水彩画、油絵などさまざまな方法やタッチがあります。それぞれに良さはありますが、切り絵はハサミがあれば、色紙やいらないチラシ、衣類などで作ることのできる手軽さもあります。少し心の安らぎが欲しいなというときは、切り絵を楽しんでみると良いかもしれませんね。

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