今回は西洋美術の中でも特に世界的に人気な「印象派」を紹介します。日本でも大きな美術館で「印象派の画家」「印象派展」など展示会が行われているので聞いたことがある方もいるかもしれません。「印象派」は西洋美術の中でも特に人気があります。
現代では人気のある「印象派」ですが、当時1870年代のフランスで画家が作品を発表した際には非難を浴びていました。その理由は一体何でしょうか…?「印象派」は、西洋美術史の中でも大きな転換となった美術運動で、美術はよく分からないという人にも美術史の入口として分かりやすいので、ぜひこのコラムの中で作品や時代背景も味わっていただけると幸いです。
1.「印象派」これ実は悪口なんです
1-1.「印象派」とは
「印象派」は1870年代から1880年代にかけてフランスで起きた美術運動です。画家クロード・モネ(1840-1926)の《印象 日の出》という作品が始まりでした。
日の出頃の船場の様子が描かれています。ぼんやりとした作品ながら、船や日の出とはっきり分かるように描かれています。普仏戦争での敗戦後、復興へ向かうフランスの風景としてル・アーブル港が描かれています。
小型の舟と、大きなクレーンの対比もありつつ、情緒ある風景画に見えますね。余談ですが、現在ル・アーブル港は、世界遺産にも登録されたフランス第一の港湾都市として世界から人の集まる観光大都市となっています。そのような《印象・日の出》ですが、当時は本当に斬新な絵で、「印象派」という美術運動を生み出しました。
1-2.「印象派」は悪口だった
現在も美術館やメディアで使用される「印象派」ですが、実は最初は悪口として生まれた言葉です。1873年《印象・日の出》が展覧会で発表されると、当時のパリの風刺新聞『ル・シャリヴァリ』では「印象しかない」と批判の記事を掲載しました。また、クロード・モネと仲間の画家が企画して行ったこの展覧会自体も「印象派展」と揶揄されています。
2.なぜ印象派は悪く言われたのか【時代背景】
では「印象派」はなぜ揶揄されたのでしょうか。生まれた時代背景をより詳しくお話します。当時のフランスでは王立の芸術アカデミーが年に一度、国営の展覧会を開催していました。その展覧会サロン・ド・パリの審査に通り、出展することが画家になる条件です。サロンに展示され、裕福な顧客を得ること。これが一人前の画家の条件でした。
しかし問題はこのサロンの審査でした。審査では15世紀のルネサンス画家ラファエロ・サンティ(サンツィオ)(1483〜1520)のような写実的な絵を理想としていました。
ラファエロの絵は遠近法を使いつつ、境界線や影もはっきりしていて、人物も空間も細かく写真のように描かれています。サロンでもこうした写実的な作品が求められました。例えば有名なものはこちらの絵です。
サロンでは、人物画を主体に、宗教や歴史、神話の作品を描いたものが評価されました。日常や庶民の風景では落選してしまいます。そんな時代だからこそ、日常をぼんやりと描いたクロード・モネの絵は批判され、しかも未完成な「印象しかない」絵といわれる訳です。
そんな保守的なサロン・ド・パリで落選を経験してきた画家たちが集まり、自らで行った展示が1874年の第一回「印象派展」です。伝統的なパリ・サロンに反抗し、自らで展示場を借り、展覧会を行った点は歴史的にも新しいものでした。展覧会にはクロード・モネだけではなく、画家30人ほどの作品が集まっています。
展覧会の後、批判をした新聞を見て、画家たちも自ら「印象派」と名乗り、1886年までの13年間に計8回の「印象派展」を開催しました(73,74,76,77,79,80,81,82年)。「印象派展」全てに参加した画家カミーユ・ピサロ(1830〜1902)もいますが、一方で「印象派展」の自由度は高く、毎回新しい画家が展覧会に参加していました。
3.「印象派」はどう面白いのか?【作風解説】
サロンに対して、反抗したという点でも歴史的に大きな意味はありましたが、画家たちが審査を気にすることなく自由に描いた作品のため、作風もそれまでの写実的な絵画とは異なりました。
3-1.画家自身が見た風景を描いていた
「印象派」の画家たちは自身の見た風景を大雑把に描いています。どれだけ実際の風景に似せて描くかではなく、風景を見て自身はどのように感じ取ったのかを表現しています。
例えば印象派の代表的な画家アルフレッド・シスレー(1839〜 1899年)の絵です。
写実的な絵とは違い、人物は顔も分からないぼんやりと描かれ、奥の森と空の境界もあやふやです。一方で、旗は大きく強調されて描かれています。アルフレッド・シスレーが風景の中で旗や空の情景に強い関心を持ったことが分かりますね。
このように描く人の主観が重視されているのが「印象派」の作品の特徴の1つです。人物を主流に、見えるものを正確に描くことを重視した写実主義の作品とは一線を画しています。
3-2.日常を描いていた
「印象派」は宗教や神話ではなく、日常の風景を描きました。自身が滞在した場所や故郷の風景、時には身近な家族や恋人が登場します。例えば、こちらはピエール=オーギュスト・ルノワール(1841~1919)が第7回印象派展に出品し、評価を得た作品です。日常の昼食の様子が描かれ、登場するモデルも友人たちでした。
3-3.屋内ではなく屋外で制作していた
「印象派」以前は、宗教や神話、歴史的偉人などの人物画が中心のため、画家は屋外で制作する必要はなく、自身のアトリエで制作を行いました。一方で、「印象派」は身近な風景を描いたため、制作は屋外で行うこともありました。屋外でデッサンをし、自身のアトリエに戻ってから色を付ける人もいれば、最初から最後まで屋外で制作をした人もいます。中でもクロード・モネは小型のボートを購入し、船に乗って絵を描くこともあったということです。
4.「印象派」は次第に評価されていった
「印象派」はフランス王立のアカデミーから非難されました。しかし、個人の経済力のある画商や批評家たちから次第に評価されていきます。そして、「印象派展」期間を通し、画家は国家アカデミーの評価ではなく、民間の画商や批評家たちの評価から顧客を獲得する中で成功を目指していくようになります。
画家の登竜門であったサロン・ド・パリも次第に「印象派」の作品を認め始めました。そして、1880年にサロンは展覧会を民営化する形となり、次第に権威を失っていきました。
時代背景も見てみると、当時はフランス革命も終わり、そして近代化が進む時代です。庶民の所得や文化も発達し、国家ではなく個人が力を持つ、自由な個人主義の時代へと進んでいました。だからこそ高額な絵画が民間の中で取引できるようになり、また国家から距離を置いた「印象派」が評価され始めたのです。
5.「印象派」の解散と次世代へ
評価を得ていった「印象派」ですが、経済事情から再びサロンでの出展を始めた画家や、サロンには反発しつつも「印象派」と呼ばれることは嫌がる画家、新たな作風を見つける画家も現れていきます。そうした画家活動の方向性や作風の違いから、「印象派展」は1986年が最後となります。
しかし、「印象派」の未完成とすら見える絵が作り出した色味や筆致の自由さは次世代の画家に計り知れない影響を与えていきます。若い頃に「印象派」の色彩や筆致に影響を受けた画家たちはさらに独自の作風を作り出していきました。その世代は有名な画家ポール・セザンヌ、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャンです。次回以降のコラムで彼らについて詳しくお話していくのでお楽しみ下さいね。
有名な美術作品は時代に新たな影響をもたらしたもので、発表当時は実は大きな批判を受けていたものが多くあります。しかし批判を受けた作品がどう受け入れられたかを知ることが、美術の楽しさや今の時代にもつながる知恵にもつながります。引き続き美術史をお楽しみ下さい。