前回は、「東洋医学とは“中国発祥の伝統医学”である」という定義のお話しをしました。もちろん、あまりそこにこだわらずに、東洋医学と中医学は“ほぼ同じです”の表現でいってしまっても良いのかもしれません。
しかし、そこには東洋医学にまつわる日本の特殊な事情があり、そこをお話しておかないと東洋医学を説明する際に混乱することもあり、またさらに、『セゾンのくらし大研究』の読者が東洋医学を選択する際に、何を基準に選んだら良いのだろうと迷ってしまうと考えたからです。
東洋医学を正しく理解していただき、そして、より安心して選択してもらうためにも、このコラムを読んでいただけたら幸いに思います。
そこで、今回は「東洋医学」「中医学」そして「漢方」という3つの名称の区別についてご紹介します。
「漢方」と「蘭方」
はじまりは江戸時代です。江戸時代後期に入りますと、唯一開国していたオランダとの交流によってオランダ医学が日本に入ってくるようになりました。
その頃、日本史にも必ず出てくる、かの有名な前野良沢(まえのりょうたく)、杉田玄白(すぎたげんぱく)らが『解体新書』を著したわけですが、
この辺りからオランダ医学が広まりはじめ、オランダ医学と従来からの中国経由の医学とを区別する必要が出てきました。そこで、はじめて前者を「蘭方」と呼び、後者を「漢方」と呼ぶことになりました。
このように、「漢方」という言葉は比較的新しい言葉であるということを意外に思われるかもしれません。しかし、オランダ医学が輸入される以前は、中国経由の医学しかなかったわけですから、わざわざ区別する必要もなかったので、当然といえば当然のお話であります。
このようにして、「漢方」という名称は、「蘭方」に対する医学として生まれました。
日本独自の漢方路線
ここでまた江戸時代のお話です。『解体新書』を著した前野良沢や杉田玄白らが出現する一世代前に、吉益東洞(よしますとうどう)という医学者が出現しました。
この吉益東洞は、古来から続く中国伝統医学にある陰陽や五行といった哲学や理論を完全に否定します。彼は、陰陽や五行といった理論そのものに懐疑的であり、それらをむやみやたらと振りかざすことは医学ではないと主張し、それよりも、もっと実践的で確実に効果があるものこそ必要であると考えました。
そこで彼は、漢方薬の聖典である『傷寒論(しょうかんろん)』や『金匱要略(きんきようりゃく)』という古医書の内容を丹念に一つひとつ検証していき、漢方薬と症状とを直結する処方体系をつくり出し、古方派と呼ばれる一派を形成しました。
吉益東洞は相当なカリスマだったのか、多くの医家が追随し、さらには彼が創始した古方派がその後の日本の漢方薬のスタンダードにもなりました。
現在でも多くの先生が古方派を支持しており、また、これは日本人である吉益東洞が創出したということもあって、日本の漢方薬界では、これは日本のなかで育った日本独自の処方体系なのだから、
これこそが「漢方」であって、「中医学」とは区別すべきであるという考えも根強く、なかには、ややこしく「日本漢方」という先生も少なくありません。
混乱しないように端的にいいますと、「漢方」というのは“日本生まれの古方派”のみを指します。漢方薬を取り扱う漢方業界の間では、このこだわりはとても強いようで、
そしてこの区別は割りと明確にしてほしいとされているのか、実際に、薬を取り扱う登録販売者の試験においても、この区別は必ず出題されるところになっています。
日本の文化史でよくいわれることですが、江戸時代は鎖国をしていたため、諸外国の影響をあまり受けず、またとても平和な時代であったことも幸いし、さまざまな分野の文化が日本独特にカスタマイズされ醸成されました。
医学もその例に漏れず、日本独自の路線が出現し、それが現在に至るまで続いており、それが「漢方」と呼ばれているわけです。まとめますと、「漢方」という名称が中国由来のものかと思いきや、実は“日本生まれの古方派漢方処方法”で、日本独自のものということになります。
「中医学」という名称
最後に「中医学」という名称についてです。日本の江戸時代由来の「漢方」とどこが違うかを見ていきます。
“中国の伝統医学”が生まれたのは4000年前ともいわれていますが、それが『黄帝内経』という書物として著されたのが2000年前になります。
しかしそこで全てが完成したわけではありません。この『黄帝内経』の成立はあくまでスタートにすぎず、さらにその後、多くの医家が携わり、肉付けをしながら発展してきました。
その過程のなかでも大きな節目のひとつが、中国の金・元の時代です。この時代に4人の有名な医家が出現しました。4人の名前はそれぞれ劉完素(りゅうかんそ)、李東垣(りとうえん)、張従正(ちょうじゅうせい)、朱丹溪(しゅたんけい)で、「金元四大家」と総称されます。
また、金元四大家が発展させた医学体系を、李東垣の“李”と朱丹溪の“朱”を取って「李朱医学」といいます。この李朱医学は、当時の医学としては最先端であり、最高レベルであったわけですが、当然これらの書物や知識が日本にも輸入されることになります。
日本では、この医学体系を後世方派(ごせいほうは)といい、これを引き継いだのが曲直瀬道三(まなせどうざん)という医家で、最先端の医学体系によって戦国諸大名の治療にもあたり、信頼を得ておりました。
この後世方派は、中国伝統医学の根底に流れる陰陽や五行といった理論を活かしながら、漢方薬の構成要素になる生薬を巧みに組み合わせて、より効果の高い漢方薬を編み出していきました。
後世方派は陰陽五行理論、気血水理論、臓腑論などを基にして処方を考えます。後世方派の代表的な漢方薬に補中益気湯があり、これは日本人にはよく使われる処方のひとつとして名前を聞いたことがある方も多いと思いますが、後世方派による功績の高さがわかると思います。
こういった後世方派の考え方や処方方法が、現在の「中医学」になります。厳密にいえば、この後世方派の理論がそのまま「中医学」になったのではありません。
清朝が終わった近代中国において、雑多に散らばっていた古来からの中国の伝統医学を再構築する動きがあり、それによって高度に体系化してできあがったものが「中医学」になります。
しかし、日本に伝わる後世方派と「中医学」はとても近いものになりますので、ほぼ同等と見て良いのではと思います。
おわりに
以上、「漢方」「中医学」といったキーワードでお話をしてまいりました。そこに「東洋医学」という言葉でまとめてみると、以下のような図になります。
漢方薬や鍼灸を扱う先生の中には、この区分にとてもこだわる方も多く、あまりに行き過ぎるとお互いを批判しあったりしてしまうこともあります。これは利用者である患者様の視点でみればとても不毛なことになりますよね。患者様からみれば、どちらであっても症状を改善してくれれば良いわけですから…。
ネットの情報を検索すると、「漢方」なのか、「中医学」なのか、よくわからず混乱する方が多いと思いますが、わたし個人としましては、「東洋医学」という名称が一番馴染みやすいと思っておりますので、「東洋医学」という言葉の中に、「漢方」「中医学」の概念を含んで使っています。
また、実際の臨床の場でも、「漢方」「中医学」という垣根を作らずに、お互いの良いところ取りをしています。強くこだわる先生からは、折衷派といわれることもありますが、そこは馬耳東風です。
何よりも大事なのは、患者様のためにわかりやすく説明すること、そして患者様の症状の改善のために最善手を選択することなのであります。
これから東洋医学を利用しようと思っている方で、いろいろとネットで情報を検索している方もいるでしょう。もし「中医学」「漢方」「東洋医学」どれが良いの?と迷われる場合は、今後の選択の参考にしてみていただけたらと思います。