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ピカソは何がすごいの?何を目指していたのか?【西洋美術史⑧】

ピカソは何がすごいの?何を目指していたのか?【西洋美術史⑮】
石田 高大 現代美術家

執筆者
石田 高大 現代美術家

作家・ライター。パフォーマンス・ハプニング作品を中心に現代美術の制作をしている。制作の中でリサーチした知識を発信していきたいと思い、2021年よりライターとして活動を開始。現在、美術や美術史を中心に執筆。著書に『自分らしい生き方が見つかる現代アートの始め方』がある。

20世紀最大の芸術家ともいわれるパブロ・ピカソ。絵の知識がある人もない人も、名前を知らない方はほとんどいないでしょう。しかし「ピカソの何がすごいの?」と聞かれて答えられる人も少ないでしょう。

画家は亡くなってから絵の価値が上がり、評価されていくことも多い美術の世界ですが、パブロ・ピカソは珍しく生前から名声を得ていた画家でした。その上10代の頃から評価されていた早熟の画家です。しかし、91歳までの長い人生の中で何度も作風を変え続けた画家でもありました。

ではパブロ・ピカソは、何を目指していたのでしょうか。今回はパブロ・ピカソの作品や人生についてご紹介いたします。

1.ピカソは何がすごかったのか

パブロ・ピカソは1881年スペインで生まれた画家です。10代の頃からスペインで評価を受け、20歳ごろからはフランスにて活動しました。その作品数は約15万点と、最も沢山の作品を作った芸術家として「ギネスブック」にも登録されています。

パブロ・ピカソ (1881~1973年) 出展:Wikimedia
パブロ・ピカソ (1881~1973年) 出展:Wikimedia

現代でもパブロ・ピカソは有名ですが、10代から晩年まで注目され続け、ピカソの絵を見る人々の心を動かし、新たな手法を生み出し、そして絵をビジネス的に販売し収益を上げ、作品を通じて社会にメッセージを投げかけました。パブロ・ピカソのすごさは沢山ありますが、特に美術史の中で注目されている点を中心にご紹介します。

2.10代でスペイン美術の傑作を生む

パブロ・ピカソは画家の息子として生まれ、父親の訓練も受けつつ幼少期から絵を描いていました。

13歳の頃には写実的な絵画技法を使いこなしており、本格的な画家を志していきます。15歳のときの作品《叔母ぺパの肖像画》について、美術史家ファン・エドワード・シロットは「スペイン全美術史で最も優れた作品の1つ」と評しています。既に画家としての才能を発揮していました。

パブロ・ピカソ《叔母ぺパの肖像画》(1896年)
パブロ・ピカソ《叔母ぺパの肖像画》(1896年)出展:Wikiart

その後、1900年に芸術の中心地であるフランスのパリへの旅行、そして1900年のパリへの移住なども経て作品は変化します。写実性ではなく内面を描いた作品に移り、1901〜1904年には青や青緑を中心とした絵画シリーズ、1904〜1906年には赤やオレンジを中心とした絵画シリーズを展開します。前者は『青の時代』、後者は『バラ色の時代』と呼ばれています。

青や青緑を中心とした『青の時代』の作品の1つ パブロ・ピカソ《Life》(1903年)
青や青緑を中心とした『青の時代』の作品の1つ パブロ・ピカソ《Life》(1903年) 出展:Wikiart

青や青緑を中心とした『青の時代』の作品の1つ パブロ・ピカソ《Life》(1903年)
赤やオレンジが中心の『ばら色の時代』の作品の一つ《Three nudes》(1906年) 出展:Wikiart

3.すごいものを盗み、自分のものにする力

パブロ・ピカソは優れた作品の技術を盗み、自身の作品に活かすことが得意な画家でした。代表作でもある1907年の《アヴィニョンの娘たち》も他の画家の影響が大きく表れています。

パブロ・ピカソ《アヴィニョンの娘たち》(1907年)
パブロ・ピカソ《アヴィニョンの娘たち》(1907年)  出展:Wikiart

作品《アヴィニョンの娘たち》は前の世代の画家ポール・セザンヌとポール・ゴーギャン、そして15世紀末から活躍したスペインの画家エル・グレコの作品が真似られています。

まずポール・セザンヌの影響は体の形です。ポール・セザンヌは《大水浴図》などの作品で、人の体を直線や三角形などの幾何学的な形で描いていました。パブロ・ピカソの《アヴィニョンの娘たち》も同じく人体が幾何学的に構成されています。(ポール・セザンヌのコラムは『ポール・セザンヌのどこかおかしな絵と大器晩成な人生【西洋美術史解説③】』)でもご紹介しています。

ポール・セザンヌ《大水浴図》(1906年)
ポール・セザンヌ《大水浴図》(1906年) 出展:Wikimedia

ポール・ゴーギャンの影響は描かれている女性の顔です。《アヴィニョンの娘たち》の中心と中心から左の女性はピカソの出身地であるスペイン風ですが、一番左の女性はエジプト風の顔、右側の2人はアフリカ彫刻の仮面のような顔をしています。民俗美術や民俗宗教を作品に混ぜ合わせる手法は前の世代の画家ポール・ゴーギャンが行っていたものです。(ポール・ゴーギャンのコラムは『人の孤独と虚しさと…《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》ポール・ゴーギャン 【西洋美術史④】』)で紹介しています。

ポール・ゴーギャン《黄色いキリスト》(1889年) 出展:Wikimedia
ポール・ゴーギャン《黄色いキリスト》(1889年) 出展:Wikimedia

そして、作品全体の構図は、スペインの15世紀末から16世紀前半に活躍したスペイン画家エル・グレコの《第五の封印》が真似られています。奥の裸の人の並びは《アヴィニョンの娘》と類似しています。パブロ・ピカソは同じスペイン出身の画家でもあるエル・グレコに若いころから影響を受けていたようですね。

エル・グレコ《第五の封印》(1610年) 出展:Wikiart
エル・グレコ《第五の封印》(1610年) 出展:Wikiart

パブロ・ピカソはこうして前の時代の芸術家たちを真似る中で自分独自の作品を生み出していきました。仕事や習い事などできる人がやってることを真似て、自分のものにすることは大事ですが、パブロ・ピカソは絵の中で尊敬する画家が行っていた手法を真似ることに非常に長けていたのです。

4.キュビスム手法を作り上げる

1909年にはさらに手法を発展させ、完全に新たな手法『キュビスム』を生み出していきます。

パブロ・ピカソ《House in the garden》(1908年) 出展:Wikiart
パブロ・ピカソ《House in the garden》(1908年) 出展:Wikiart

庭や木を描いたものであることは分かるのですが、すべて直線で描かれています。パブロ・ピカソは作品に幾何学を用いたポール・セザンヌの手法をさらに発展させ、なんと立方体(キューブ)だけで描き始めます。このすべてをキューブで描いていく手法は『キュビスム』といわれています。

パブロ・ピカソ《Harlequin》(1918年) 出展:Wikiart
パブロ・ピカソ《Harlequin》(1918年) 出展:Wikiart

パブロ・ピカソは偉大な画家たちの作品を真似つつ、独自の作風を確立させました。10歳の頃に描いていた、写実的な作品とはもはや別物の作品ですね。

一見すると「この絵の何がすごいの?」となりそうですが、パブロ・ピカソは絵の説明を大事にしていたことが知られています。画商を呼び、作品ができるまでのストーリーを丁寧に説明し、作品の価値を高めていきました。物を売る上では作られるまでのストーリー性が重要だと分かっているビジネスマンだったのです。ヨーロッパ、そしてアメリカでも根強いファンを獲得していきました。

5.反戦絵画『ゲルニカ』

成功を収めていたパブロ・ピカソでしたが、イタリアへの旅行やシュルレアリスムの芸術家とも交流しつつ、1920年代以降もさらに新たな作風を探求します。(シュルレアリスムについてはコラム『初心者にはまず「シュルレアリスム」の鑑賞がおすすめ!【西洋美術史解説①】』)  でご紹介しています。

1937年に制作された《ゲルニカ》は非常に有名な作品です。ゲルニカはスペインにある町のことで、《ゲルニカ》ではスペイン市民戦争を題材に戦争の悲惨さが描かれています。

パブロ・ピカソ《ゲルニカ》1937年 出展:Wikiart
パブロ・ピカソ《ゲルニカ》1937年 出展:Wikiart

作品《ゲルニカ》は戦争に行った兵士ではなく、町に残された女性や子ども、馬など市民が犠牲になった様子が描かれています。《ゲルニカ》はピカソのいたフランスだけでなく、ノルウェーやイギリスといったヨーロッパを巡回して展示されました。巡回で得られた資金はスペイン市民戦争の被害への寄付金とされています。

第二次世界大戦中にフランスがドイツに占領されると、パブロ・ピカソはドイツ軍による文化弾圧で作品の発表はできなくなりましたが、フランスに残って密かに制作を続けていました。

6.ピカソは何を目指したのか

戦後既に60代を超えていたパブロ・ピカソでしたが、まだ作品を作り続けました。1946年からは南フランスのヴァロリスという地域に移り、陶器作品の制作を始めます。ヴァロリスはフランス南部の気候も温暖な地域で、良質な土のとれる陶器制作が盛んな地域でした。

《Plat ovale》(1953年) 出展:Wikiart
《Plat ovale》(1953年) 出展:Wikiart

しかし、作風を変え続けていたパブロ・ピカソは何を目指していたのでしょうか。人によっては、次第に意味が分からないものに、幼稚な作品になっていると感じるかもしれません。

しかし、絵について知らない子どものような絵をパブロ・ピカソは目指していたのです。小さかったころから父親に絵の技術を教えられ、自由に描くことができなかったからでしょうか。こんな名言が知られています。

It took me four years to paint like Raphael, but a lifetime to paint like a child.

「10代でルネサンスの巨匠ラファエロのような絵は描けたが、子どものように絵を描くには生涯かかった」

1973年に91歳で亡くなるまで制作を続けたパブロ・ピカソですが、晩年は自身が用いてきた手法をごちゃまぜにしたような作品を作っていきます。世間からは、ピークを過ぎた画家、投げやりな作品とあまり評価されませんでしたが、一番自由でいられた時間なのかもしれません。作品に必ず日にちをメモしていたことからも、自分用の日記だったのかもしれません。

晩年の作品 《Head of the man》(1972年) 出展:Wikiart
晩年の作品 《Head of the man》(1972年) 出展:Wikiart

7.日本にあるピカソ館

パブロ・ピカソは生涯多くの作品を残しているので、日本にも多くの美術館が作品を所蔵しています。しかし、中でもパブロ・ピカソの作品を300点近く所蔵しているのが神奈川県にある「箱根 彫刻の森美術館」です。

出展:Wikimedia (by leon&mae)
出展:Wikimedia (by leon&mae)

『箱根 彫刻の森美術館』

所在地〒250-0493 神奈川県足柄下郡箱根町ニノ平1121
最寄り駅箱根登山鉄道「彫刻の森」徒歩2分 (JRまたは小田急線「小田原」駅にて箱根登山鉄道に乗り換え)
公式HP『箱根 彫刻の森美術館』
彫刻の森駅

広い庭園の中に、野外彫刻が設けられた美術館ですが、中にはなんと「ピカソ館」があり、パブロ・ピカソの作品を一気に見ることができます。自然に触れ合いつつ美術を鑑賞したい人にはぜひおすすめです。

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